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織田信秀 おだのぶひで

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

織田信秀
おだのぶひで

[生]永正7(1510).尾張
[没]天文20(1551).3.3. 尾張,末森
戦国時代の武将。清洲の尾張守護代織田大和守家の庶流で,三奉行の一人。初め弾正忠,のち備後守。信定の子で,信長の父。勝幡城居城とし,次第に勢力を広げ織田一族中最強となった。今川義元斎藤道三とも戦ったが道三とは和約し,信長に道三の娘をめとらせた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

織田信秀 おだ-のぶひで

1511-1551 戦国時代の武将。
永正(えいしょう)8年生まれ。織田信定の子。織田信長の父。尾張(おわり)(愛知県)清洲(きよす)城主織田家三奉行のひとり。天文(てんぶん)7年ごろ今川氏豊那古野(なごや)城から追放するなど,尾張で勢力をふるう。16年美濃(みの)(岐阜県)の斎藤道三に敗れ,道三の娘濃姫を信長と結婚させ和議をむすんだ。天文20年3月3日死去。41歳。没年には天文18年,21年説もある。通称は三郎。

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朝日日本歴史人物事典の解説

織田信秀

没年:天文20.3.3(1551.4.8)
生年:永正8(1511)
戦国時代の武将。織田弾正忠信定(貞)の子。信長の父。通称三郎。官途・受領は,はじめ弾正忠,晩年には備後守を称した。尾張清須城主下4郡守護代織田大和守の一族で,清須三奉行のひとり。本拠の城は海東郡の勝幡城で,近くに津島社の門前町として,また湊町として繁栄していた津島があり,それを支配したことから経済力をつけ,次第に他の織田一族を凌駕していった。天文2(1533)年ないし7年ごろ,連歌にことよせた奇計で今川氏豊を那古野城から逐い,この城を本拠にし,生まれたばかりの信長をそこに置いて,自らはもうひとつの経済的基盤となる熱田を押さえるため,古渡城を築いて移った。そのころにはすでに主家清須織田氏だけでなく,守護斯波氏を圧倒し,尾張を代表する勢力になっていた。天文11年には三河の小豆坂で今川義元と戦い,同16年には美濃の稲葉山城下まで攻め込んで,斎藤道三と戦い,敗れている。腹背に敵を持つ不利を考え,道三とは和睦,道三の娘濃姫を信長の嫁に迎えている。同18年には犬山城の織田信清(信秀の弟信康の子)が反乱をおこし,三河の安祥城が今川義元に奪回されるなど,内外ともに苦しい状況のなかで,流行病で没した。没年については,天文18年説,同21年説もある。家督は3男の信長が継いだ。<参考文献>小和田哲男『織田家の人びと』

(小和田哲男)

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世界大百科事典 第2版の解説

おだのぶひで【織田信秀】

1510‐51(永正7‐天文20)
戦国時代の武将。弾正忠信貞(定)の子。はじめ弾正忠,晩年は備後守と称する。その家は尾張清須に居した織田大和守家の庶流で,三奉行の一員。はじめ海東郡勝幡(しよばた)城,のち那古屋城に移り,さらに1534年熱田の北の古渡に城を築く。42年今川氏と三河小豆坂に戦って勝ち,48年には美濃の斎藤道三の女濃姫を子信長にめとって和議を結ぶなど,その勢力は隣国にまで及んだ。1543年には禁裏築地修理料4000貫文を献上

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大辞林 第三版の解説

おだのぶひで【織田信秀】

1510~1551) 戦国時代の武将。信長の父。尾張守護代清洲織田家三奉行の一人。今川義元・斎藤道三と対峙。道三の娘を信長にめとり、和睦。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

織田信秀
おだのぶひで
(1508―1551)

戦国時代の武将。尾張(おわり)国(愛知県)の出身。信定(のぶさだ)の子、信長(のぶなが)の父。初め弾正忠(だんじょうのちゅう)と称し、のち備後守(びんごのかみ)に改める。尾張国守護代である清洲(きよす)の織田大和守敏定(やまとのかみとしさだ)の三奉行(ぶぎょう)の一人で、初め勝幡(しょばた)城にいた。当時織田氏は、清洲の守護代家と岩倉城の織田伊勢守(いせのかみ)が互いに尾張半国を支配し勢力を競っていた。その間に三奉行の力が強くなり、信秀はやがて主家をしのぎ、居城を那古野(なごや)、古渡(ふるわたり)、末森(すえもり)へと移しながら、しだいに勢力を伸張させていった。1542年(天文11)駿河(するが)の今川義元(よしもと)と小豆坂(あずきざか)で戦い、さらに美濃(みの)の斎藤道三(どうさん)と戦い、両勢力の尾張進出の阻止を図った。しかし、44年には斎藤氏に大敗を喫し敗走するが、やがて子信長に道三の娘濃姫(のうひめ)を娶(めと)って和睦(わぼく)している。このように信秀は国外の敵とは活発に戦ったが、国内勢力の完全打倒はできなかった。だが信長の雄飛の基礎を築いたといえる。また伝統と権威を重んじ、伊勢外宮(げくう)に銭700貫、禁裏築地(きんりついじ)修理料として4000貫を献上するなど中央権力へも積極的に接近し、これにより後奈良(ごなら)天皇より綸旨(りんじ)と『古今集』が下賜された。天文(てんぶん)20年3月3日末森城で没した。法名桃厳道見、墓は万松寺(ばんしょうじ)(名古屋市中区)にある。没年については天文18年、同21年説もある。[橋詰 茂]

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世界大百科事典内の織田信秀の言及

【織田氏】より

…斯波氏の分裂抗争とともに,織田氏も春日井郡清須城に拠り下四郡を領する一家と,丹羽郡岩倉城において上四郡を領する一家とに分裂し互いに争う。天文年間(1532‐55)になると,清須織田家の三奉行の一人織田信秀がしだいに力を強め,主家をしのいで隣国にまで勢力をのばすようになる。その子信長は1568年(永禄11)足利義昭を奉じて入京,室町幕府を再興する。…

【徳川家康】より

…父は岡崎城主松平広忠,母は刈谷城主水野忠政の娘(於大の方(おだいのかた),法号伝通院(でんづういん))。広忠は駿河の大名今川義元の勢力下で尾張古渡(ふるわたり)城主織田信秀と対立していたが,その渦中で於大の方の兄水野信元が今川氏に背いて織田氏と結んだので,於大の方は3歳の竹千代を残して離別され,まもなく尾張阿古居城主久松俊勝に再嫁し,竹千代19歳のときまで会うことがなかった。 6歳のとき,人質として駿府の義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られた。…

【平手政秀】より

…戦国期の武家で,織田信秀の老臣。初名は清秀,中務丞と称した。…

※「織田信秀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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