日本歴史地名大系 「河江村」の解説 河江村ごうのえむら 熊本県:下益城郡小川町河江村[現在地名]小川町河江 河江・三軒屋(さんげんや)東は北部田(きたべた)・南小野(みなみおの)・中小野(なかおの)・北小野村、西は北新田(きたしんでん)・江頭(えがしら)村、南は南部田・江頭村、北は竹崎(たけざき)村(現松橋町)と接する。南北に細長く、平野地帯に位置する。古くは臨海の地にあった。江頭村との境に八(はち)ノ坪(つぼ)・十六(じゆうろく)といった字名があり、条里を想定させる。慶長国絵図に村名がみえる。河江手永に所属し、近世初期には手永会所が置かれた。正保郷帳によると高五七二石九斗余、うち田方五五〇石五斗余・畑方二二石三斗余。当村の北地区に堀江(ほりえ)という小村があり、明和三年(一七六六)に築かれた三軒屋新地の一部に属し、「国誌」の「三軒屋堤」の項に「元和寛永ノ際、海渚ニ塘ヲ築テ街道トシ、其ノ内ヲ墾田トス」とある。 河江村かわえむら 兵庫県:城崎郡日高町河江村[現在地名]日高町河江奥八代(おくやしろ)村の北西、円山(まるやま)川支流奈佐(なさ)川の上流部に位置する。地名は古くには河会と書き、永暦二年(一一六一)八月七日付の大岡寺敷地山林注進状案(大岡寺文書)に、惣寺内四至の南限として「河会坂鳥居」とみえる。河会は大岡(おおおか)寺寺域の最南端に接し、登山口に鳥居が設けられていた。ちなみに東の杭野坂、西の太多(ただ)坂、北の椒(はじかみ)坂にもそれぞれ鳥居があった。また河会には古くから河会寺があった。江戸時代の領主の変遷は奈佐路(なさじ)村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳によると高九五石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by