日本歴史地名大系 「沼和田村」の解説 沼和田村ぬまわだむら 栃木県:栃木市沼和田村[現在地名]栃木市沼和田町・城内町(じようないちよう)二丁目片柳(かたやなぎ)村の東に位置し、巴波(うずま)川が北から東に迂回して流れる低地に立地する。同川の栃木城内(とちぎじようない)村境の辺りは激しく蛇行しているため、舟運に携わる者や筏流しの人足らに水難場として恐れられた。例幣使街道は片柳村南西部を経て東進、当村川間(かわま)に入って北上し、巴波川を渡って栃木町に入る。街道筋には江戸時代後期人家が立並び、栃木町の町続きになっていた。建武三年(一三三六)四月二九日北朝方の佐野安房一王丸は沼和田の合戦に参加しているが(同年一二月日「佐野安房一王丸軍忠状」落合文書)、延元元年(一三三六)五月三日の真壁宣政軍忠状写(真壁長岡文書小解所収文書)には沼和田河原とみえる。 沼和田村ぬまわだむら 埼玉県:本庄市沼和田村[現在地名]本庄市沼和田など利根川南岸の沖積低地の自然堤防上に位置し、東は久々宇(くぐう)村、南は本庄宿。寛永年間(一六二四―四四)以前は上野国那波(なは)郡に属していたが、烏(からす)川の変流によって武蔵国所属となったとされる(上野国志)。村内を南北に伊勢崎往還、東西に三国(みくに)街道が通る。慶長二〇年(一六一五)四月内藤主税介(信広)は、徳川氏から沼和田村で九二五石余、元和三年(一六一七)にも同じく内藤東市正(信広)が九二五石余を宛行われている(記録御用所本古文書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by