出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
Sponserd by 
例幣使街道
れいへいしかいどう
京都の朝廷が日光の家康廟の四月一七日の祭礼に派遣した奉幣使が通行したため名付けられた道筋。京都から中山道を下り、上野国倉賀野宿(現群馬県高崎市)で中山道から東へ別れ、玉村宿・五料宿(現同県佐波郡玉村町)を経て利根川を渡り、柴宿(現同県伊勢崎市)、木崎宿(現同県新田郡新田町)、太田宿(現同県太田市)を過ぎ、下野国に入る。宿村大概帳によれば、太田宿から二里一〇町で八木宿(現足利市)、三〇町で簗田宿(現足利市)、二里半で天明宿(現佐野市)である。天明宿は佐野城下の町で、隣の小屋町が加宿となっている。佐野城下を北東に抜け、犬伏宿(現佐野市)まで二七町、ここには堀米町(現佐野市)が加宿として付く。天明・犬伏は二宿合せて一宿の継送りをする。富田宿(現下都賀郡大平町)へ二里二七町。この途中茂呂村(現同郡岩舟町)で道は北へ折れるが、これを東へ直進すれば、日光街道小山宿へ至る。富田宿より栃木宿まで一里三〇町、栃木宿から合戦場宿(現下都賀郡都賀町)まで三三町、ここには升塚(現都賀町)、田谷・柴(現上都賀郡西方村)の三村が加宿に付く。さらに北上して一里三〇町で金崎宿(現西方村)、ここには新宿村・深見内村(現同上)が加宿に付く。そして楡木宿(現鹿沼市)まで一里八町で壬生通りに合する。倉賀野宿から楡木宿まで二四里一九町。この先は壬生通・日光街道を経て日光に達する。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
例幣使街道
れいへいしかいどう
江戸時代、日光東照宮に遣わされた例幣使が通行した街道。日光例幣使街道ともいう。朝廷は1647年(正保4)より毎年日光東照宮に例幣使派遣を開始し、1867年(慶応3)まで続いた。その行程は、京都から中山道(なかせんどう)を通って倉賀野(くらがの)宿に達し、これより例幣使街道玉村(たまむら)、五料(ごりょう)、柴(しば)、木崎(きざき)、太田(おおた)、八木(やぎ)、簗田(やなだ)、天明(てんみょう)、犬伏(いぬぶし)、富田(とみた)、栃木(とちぎ)、合戦場(かっせんば)、金崎(かなさき)の13宿を経て壬生通楡木(みぶどおりにれき)宿から日光に達した。帰路は、宇都宮から千住(せんじゅ)を経て江戸に入り、東海道を通って京都に戻った。例幣使街道は1764年(明和1)に道中奉行(ぶぎょう)支配に加えられている。例幣使一行は、入魂(じっこん)の名目で酒手(さかて)を強要したり、自ら駕籠(かご)から落ちて難題を仕掛けたりしたという。このため多くのエピソードが残っている。
[山本光正]
『大島延次郎著『日本交通史論叢』(1957・吉川弘文館)』▽『相葉伸編『例幣使街道』(1968・みやま文庫)』▽『五十嵐富夫著『日光例幣使街道』(1977・柏書房)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
Sponserd by 