デジタル大辞泉
「栃木市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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栃木市
とちぎし
面積:一二二・二二平方キロ
県南部の中央よりやや西に位置する。北は下都賀郡都賀町、北東から東にかけては同郡壬生町・国分寺町、南は同郡大平町・岩舟町、南東は小山市、西は安蘇郡葛生町、北西は上都賀郡粟野町・西方村と接する。東は渡良瀬川支流の思川が南流し、市の中心街には巴波川が流れる。これらの流域には低湿地が広がり、近年まで湧水が多くみられた。北西部は足尾山地系の山陵が迫るが、鍋山地区付近の三峰山(六〇五メートル)・谷倉山(五九九・四メートル)をはじめとする六〇〇メートル級の山が最高で、これらを縫って出流川・永野川が南東流、赤津川を合せ、さらに巴波川と合流して渡良瀬川に注ぐ。南西部の岩舟町境には太平山・晃石山など標高二〇〇―四〇〇メートル級の山地がほぼ東西に連なり、太平山県立自然公園となっている。南端部をJR両毛線が横断し、ほぼ南北に東武日光線が通り、それより同宇都宮線が分れる。西部の皆川地区を東北自動車道が通り、栃木インターチェンジが設置されている。
古代、思川右岸に下野国府が置かれ、その近くに惣社とされる大神神社が鎮座し、国の中心であった。中世は皆河氏・皆川氏の拠点が置かれ、近世初頭には栃木町が皆川氏によって計画的に建設され、のち例幣使街道の宿場として、また巴波川舟運の河岸場として繁栄をみた。栃木の地名初見は、現在確認できる史料では天正年間(一五七三―九二)にとどまる。近世は都賀郡に属し、明治一一年(一八七八)に同郡が上下に分れた時には下都賀郡に所属。「栃木」の表記は近世史料では「杤木」と書かれているが、明治に入って栃木県が成立してからは、初め「橡」「杤」が併用されていた。「栃」は漢字「橡」と同じく落葉喬木をさすが、これは漢字でなく、万が十千を意味することからなったという「杤」と同様に国字である。ほか
木県とする文書も残されており、県印の字体も栃より
に近いとされる。こうした併用を改めるため明治五年県庶務課が栃の字に統一する旨の達を張出すことを伺い出ているが、残された史料では杤の字が多用されている。このため明治一二年再度統一を図って県令通達が出された。なお本文でも便宜上栃の字を用いる。
〔原始・古代〕
先土器時代の遺跡としては永野川流域の星野遺跡が知られ、一〇メートル以上の関東ローム層内に九層以上の文化層があり、珪岩製ナイフなどが発掘された。文化層の下限は六万年以前にさかのぼるものと推定されている。
栃木市
とちぎし
2011年10月1日:栃木市が上都賀郡西方町を編入
⇒【西方町】[変更地名]栃木県
⇒【栃木市】[変更地名]栃木県
栃木市
とちぎし
2014年4月5日:栃木市が下都賀郡岩舟町を編入
⇒【栃木市】[変更地名]栃木県
⇒【岩舟町】栃木県:下都賀郡
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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栃木〔市〕
とちぎ
栃木県南部,足尾山地の南東斜面から下野平野に広がる市。南端部で群馬県,埼玉県,茨城県に接する。北西部に佐野市の飛び地がある。1937年市制。1954年大宮村,皆川村,吹上村,寺尾村の 4村,1957年国府村を編入,2010年大平町,藤岡町,都賀町の 3町と合体。2011年西方町,2014年岩舟町を編入。中心市街地の栃木は,中世には皆川氏の城下町として発展。以後は日光例幣使街道の宿場町,巴波川の河川交通による河港,市場町を兼ねて繁栄。明治4(1871)年栃木県庁が設置され,1884年宇都宮市に移転するまで県政の中心であった。かつてはタイマ(大麻)の集散地で,下駄の製造で栄えた。石灰,瓦,味噌などの在来工業に加え,一般機械工業,輸送用機械工業も行なわれる。古い家並みを残し,観光地としても知られる。宮目神社付近は下野国庁跡として国の史跡に指定。西部に国指定重要文化財の本殿をもつ村檜神社(むらひじんじゃ)がある。1918年に利根川と渡良瀬川の洪水防止のため造成された渡良瀬遊水地周辺では,自生するアシを加工したよしずを特産する。市域の一部は太平山県立自然公園,唐沢山県立自然公園に属する。東北自動車道が通り,インターチェンジがある。面積 331.50km2。人口 15万5549(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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