沼楯村
ぬまだてむら
鎌倉時代末期から南北朝期に存在したが、近世には消滅した。現在の町居の近くにあったと思われ、新館か廃村になった鯨森のことと思われる。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「蛭皐河 荒屋 十津 尾崎近代牛心ト書長崎トモ書 弘船寺 鯨森 合灌花川 唐竹」とある。蛭皐河は現在の引座川のもとになった名称と思われ、十津は遠手沢にあったといわれる。鯨森は広船の金山と尾崎の浅井を結ぶ線上にある鯨森山にあったといわれる。合灌花川は町居下流の広船川が合灌川(五郷川)とよばれるので、町居のあたりと思われる。津軽郡中名字の鯨森と推定される所は現在は果樹園だが屋敷跡らしい所もあり、その中央に館跡がある。広船川・浅井川・嘉瀬沢と三方を囲む丘によって袋状の水田地帯を作り、中世には沼沢地が多かったと思われ、沼館の名にふさわしい。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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