波止浜塩田(読み)はしはまえんでん

日本歴史地名大系 「波止浜塩田」の解説

波止浜塩田
はしはまえんでん

[現在地名]今治市波止浜

天和三年(一六八三)野間のま波方はがた(現越智郡)の浦役人長谷部九兵衛の意見に従い、郡代官園田藤太夫の指揮のもと、松山藩営工事として築造された。

当時、塩田築造技術は秘法になっていたため、長谷部九兵衛は対岸の安芸国竹原たけはら(現広島県竹原市)に渡り、苦心のすえ、技術を会得して帰ったと伝えられている(松山叢談)。その間のことを「長谷部家譜」(長谷部寛氏蔵)の九兵衛義秀の記事に「延宝九酉年波方村之内樋口村裾塩浜ニ見立御願申上候得御聞届、竹原聞合罷越候様被仰付、罷越絵図等相調差上、則御代官園田藤太夫殿御越、九兵衛一所ニ載許」と記されている。工事は天和三年一月一一日着手、同年三月九日潮留が完了、そしてこの工事には風早かざはや野間越智おち三郡を中心として、領内一円に人夫を徴している(慶蔵むかし噺)。同年竣工の塩田は三三軒で、翌年藩は次のような浜定法を出している(同書)

<資料は省略されています>

その後、貞享四年(一六八七)四軒、元禄四年(一六九一)六軒が築造された。しかし、この四三軒は宝永二年(一七〇五)の分け浜(分割統合)によって三六軒となった。畝数四〇町九反七畝一四歩、高五九一石七斗一升二合である。享保一一年(一七二六)の竹原塩浜覚書(竹原市立図書館蔵)によると、波止浜の塩浜軒数は三六軒で、竹原浜七二軒の半分にすぎないが、生産量は竹原の七―八割と多く、そのうえ運上銀は銀一〇貫目内外で非常に安いことが強調されている(竹原浜の運上銀は四三貫目)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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