広島県中南部、瀬戸内海に面した市。賀茂(かも)川流域を占める。1958年(昭和33)豊田(とよた)郡竹原、忠海(ただのうみ)の2町が合併して市制施行。JR呉(くれ)線、国道2号、185号、432号が通じ、竹原港からは大崎上島(かみじま)、大崎下島(しもじま)、大三島(おおみしま)などへの定期航路がある。中心地区の竹原は賀茂川河口に位置し、古くは賀茂御祖(みおや)神社竹原庄(しょう)の地。近世は下市(しもいち)といい広島藩領で、沿岸部は新田開発が進み、その一部は塩田に転用され、竹原塩田は藩の重要な財源となった。下市や忠海には藩の米蔵が置かれ、海運も活発であった。豊かな経済力を背景に学問も興隆し、頼山陽(らいさんよう)ら頼氏一族のほか多くの学者が出た。明治以降ブドウ栽培が盛んとなり、竹原ブドウとして知られたが、近年都市化により減少した。最近ではジャガイモの栽培が盛んになっている。三井金属鉱業の精錬所、電源開発火力発電所が立地し、食品工業や造船業も行われる。西部の吉名(よしな)は赤れんがの製造で知られる。北部の国道2号沿いに湯坂温泉郷がある。瀬戸内海国立公園域の大久野島(おおくのじま)はかつて陸軍の毒ガス工場があったが、いまは休暇村となっている。
本町通りには、江戸中期から明治期の建物が残る町並みがあり、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。妻入りと平入りの町家が混在し、頼山陽の祖父惟清(ただすが)旧宅(県指定史跡)も含まれる。また、塩田関連の資料を中心とした歴史民俗資料館がある。国指定天然記念物にスナメリクジラ廻游(かいゆう)海面、忠海八幡(はちまん)神社社叢(しゃそう)がある。面積118.23平方キロメートル、人口2万3993(2020)。
[北川建次]
『『竹原市史』全5冊(1963~1972・竹原市)』
広島県中部,瀬戸内海に面し,大久野島,阿波島などを含む。1958年に竹原町と忠海町が合体,市制。人口2万8644(2010)。市域の大部分は標高300~500mの中起伏山地で,中央を南流する賀茂川下流の小平地に古い市街地がある。平安時代には荘園竹原荘が成立,鎌倉期以降は竹原小早川氏の本拠であった。江戸時代は広島藩領で,大規模な入浜塩田が経営され,また藩の年貢米を集積,大坂へ回送する港として発展した。それを背景に頼春水,山陽父子など多くの文人,学者が輩出,竹原文化を開花させた。当時の名残をとどめる上市,下市は重要伝統的建造物群保存地区となっている。酒造,煉瓦製造などの地場産業も多いが,近代工業は三井金属鉱業竹原製錬所と電源開発竹原火力発電所のみである。従来は幹線交通からはずれ商業の近代化や流通基盤の整備が遅れていたが,近年,市域北方の三原市の旧本郷町に広島空港,東広島市の旧河内町に山陽自動車道のインターチェンジが開設,市域全体も広島中央テクノポリス地域に指定されるなど,新しい企業立地も期待されている。風光明媚な瀬戸内海の自然と古い伝統文化に調和した産業の育成をめざしている。JR呉線,国道2号,185号,482号が通じている。
執筆者:藤原 健蔵
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
…江戸時代,現在の広島県竹原市につくられた入浜塩田。安芸国賀茂郡竹原下市(しもいち)村では1646年(正保3)2月から翌年にかけ,郡代官鈴木四郎右衛門主導下に大新開(おおしんがい)が干拓されたが,その一部を塩田に改築することになり,播州赤穂から2人の技術者を招いて塩浜1軒を試作した。…
※「竹原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新