デジタル大辞泉
「今治市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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今治市
いまばりし
面積:七四・六五平方キロ
高縄半島の東部に位置する。市域は南北に細長く、長い海岸線をもつ。中央を貫流する蒼社川の形成した沖積平野であるため土地はおおむね平坦で、南部の丘陵地も標高は三〇〇メートル以下である。温暖寡雨の瀬戸内式気候で、市域の一部は瀬戸内海国立公園に含まれる。なお市域に来島・小島・比岐島・小比岐島・平市島などの諸島を含む。
市名は市成立の中核となった今治町による命名であるが、古くは越智郡高橋郷の出身で、建治二年(一二七六)東大寺戒壇院の長者となった凝念が記した新居系図に今治孝清の名があり、必蓮がその頃凝念に送った消息文に「今治」「今治津」がみえる。正安元年(一二九九)の「一遍聖絵」には「今針と云津」、「太平記」には「今張ノ浦」、明応九年(一五〇〇)の安芸厳島神官の手記「棚守房顕覚書」には「イマハリ」とあり、今治城を築いた藤堂高虎は「今治」とした。また明治までは「いまはり」「いまはる」「いまばる」ともいったが、市制施行後は「いまばり」と呼称する。
〔原始〕
今治の沖あい、燧灘の各所からナウマン象の化石が漁師の網により引き揚げられているが、縄文後期以前の遺物の発見は断片的で、桜井の沖浦遺跡のみが当時の漁業集落として注目される。弥生期のものとしては、阿方・片山の両貝塚があり、とくに阿方式土器は北九州遠賀川式の系譜をひくもので篦描きの沈線文を特徴とし、県下の前期中葉の代表的形式となっている。中期から後期にかけての遺跡は市内全域に分布しているが、中期中葉の典型で胴のよく張った壺と櫛描の幾何学文様を特徴とする中寺式土器を出土する清水・日高地区、その他町谷・新谷・宮の内遺跡があげられる。
古墳期は、当地が海上交通により畿内とのつながりが深く、部族の統合も早かったためか八基の前方後円墳をはじめ、方形周溝墓や土壙墓、群集する後期の円墳など遺跡の数はきわめて多い。昭和四一―四三年(一九六六―六八)に発掘された相の谷一号墳は県下最大の前方後円墳で、四世紀末の築造と考えられ、大量の鉄斧・鉄剣とともに銅鏡二面が副葬されており、被葬者は相当の勢力をもつ人物であったと考えられる。雉之尾二号墳は県下唯一の前方後方墳である。
〔古代〕
小市・怒麻二国の国造時代に続き、律令制下、この地方には越智・野間の二郡が設置され、今治市域は、上徳に国府説が有力で、桜井に国分寺と国分尼寺が造営されるなど、伊予国の中心となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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今治〔市〕
いまばり
愛媛県北部,高縄半島の大部分と大島,伯方島,大三島など芸予諸島の島々などからなる市。 1920年今治町と日吉村が合体して市制。 1933年近見村,1940年立花村,1955年桜井町,富田村,清水村,日高村,乃万村,波止浜町をそれぞれ編入。 2005年大西町,大三島町,上浦町,菊間町,玉川町,波方町,伯方町,宮窪町,吉海町,朝倉村,関前村の9町2村と合体。中心市街の今治は伊予国国府や国分寺が置かれ,古くから行政の中心地であった。慶長5 (1600) 年に藤堂高虎が海水を堀に巧みに入れて今治城を築いて以後,城下町として発展。綿織物の生産も発達した。 1922年開港の今治港は四国最初の開港場。農業は島嶼部を中心に傾斜地を利用したミカンの栽培が行なわれている。日本有数のタオル生産地として知られる。半島北端の波止浜には造船所が立地,造船都市としても名高い。大島では土木用石材の大島石を産出。乗禅寺の石塔は国の重要文化財。大三島の大山祇神社は古くから武士の信仰があつく,国宝8点を含む多くの甲冑類が多数奉納されている。四国八十八ヵ所第 54番札所の延命寺,第 55番札所南光坊,第 56番札所泰山寺,第 57番札所栄福寺,第 58番札所仙遊寺,第 59番札所国分寺がある。島嶼部を主とする市域の北部は瀬戸内海国立公園,南西部の一部は奥道後玉川県立自然公園に属する。今治港は阪神-別府航路の定期フェリーの寄港地で,本州や島嶼部へのフェリーなど船便の発着地。半島部には JR予讃線,国道 196号線と 317号線が通る。四国本土から芸予諸島へは西瀬戸自動車道 (瀬戸内しまなみ海道) で結ばれる。面積 419.21km2。人口 15万1672(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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