塩問屋(読み)しおどいや

改訂新版 世界大百科事典 「塩問屋」の意味・わかりやすい解説

塩問屋 (しおどいや)

産地または消費地で塩を取り扱う問屋。

江戸時代,瀬戸内十州塩田で生産される塩は,生産者の直接販売が許されず,塩問屋を通じて販売されるのが普通であった。塩廻船が塩の買付けに入船したときは,まず塩問屋と交渉する。問屋はこれを塩直師(しおねし)に通知し,直師たちは会合して値段を決定するが,問屋は船主と直師との間に立って斡旋する。その結果,塩の俵数・値段とも双方が同意すると売買が成立し,問屋は浜人(生産者)に値段を通知する。浜人は各自が売り渡そうとする俵数を問屋に申し出るが,問屋はその過不足をみて,浜人へ俵数を増減して割り付ける。これは播州赤穂の例であるが,各地の塩田でもほぼ同じ方法がとられた。

 安芸竹原塩田では1670年(寛文10)3軒の大俵塩問屋が許可され,領外売りはこの3軒に限られ,領内売りは別に小俵塩問屋がおかれた。問屋口銭は大俵塩(5斗俵)1俵につき5厘であった。ちなみに1700年(元禄13)の領外売りは約25万俵であるから問屋口銭は約銀12貫500目である。問屋は独占販売であるから,藩は問屋が暴利をむさぼることを警戒して,塩問屋の認可と引替えに問屋の機能,権限,販売組織等が詳細に記された起請文を提出させ,これを厳守して不正行為をしない旨を誓わせている。周防三田尻塩田には46軒の塩問屋があったが,1802年(享和2)には株銀200目ずつを出して6軒の北国問屋株が成立し,北国客船はこの6軒の問屋に集中されることになった。これを大問屋と称し,他を小問屋といった。塩の販売にあたっては,問屋は必要俵数を藩の販売統制機関でもある会所に通知し,会所ではそれを平均して浜人に割り付けた。浜人が直接問屋へ塩を売り渡すことは抜売りとして厳禁されていた。問屋は販売代銀100目につき3目の口銭を買主側から徴収した。また備前野崎浜や讃岐坂出浜のように,塩問屋が燃料(薪,石炭)問屋を兼ねるところもあった。

 明治10年代以降,瀬戸内各地に塩産会社,塩業組合が成立してくるが,江戸時代以来の生産地の問屋機能はこれらの会社,組合に吸収された。そして1905年塩専売制の実施によって塩の販売権は政府がもつようになる。

江戸には元和年間(1615-24)から廻船によって瀬戸内産塩が流入しているが,その塩を取り扱う廻船下り塩問屋ができたのは1633年(寛永10)ころである。これは荷受問屋であって,荷主と塩仲買の仲介を行うことによって口銭を得た。下り塩問屋,同仲買株が,行徳塩を中心とする地廻り塩問屋株とともに公認されたのは享保期(1716-36)である。塩仲買人は17世紀の中ごろには80人いたが18世紀末には24人に減少し,また内部での交替も激しかったようであるが,下り塩問屋は江戸北新堀町の秋田屋,長島屋,渡辺屋,松本屋の4軒に限定され,塩廻船を一手に引き受けていた。天保ころの問屋口銭は斎田塩1俵(6貫500目)につき3厘,赤穂塩1俵(9貫300目)につき5厘であった。1846年(弘化3)ころの下り塩問屋株は2000~4000両で,木綿・蠟問屋の1000両,塩仲買・水油・下り酒の500両などを引き離して最高の株抵当額を有していた。

 大坂には1699年(元禄12)ころ塩問屋仲間が14軒あり,1729年(享保14)には20軒に増加している。大坂塩問屋は主として取り扱う塩の産地にちなんで島塩問屋(小豆島塩),赤穂問屋(赤穂塩),灘塩問屋(上灘目塩)を称し,それぞれ仲間を結成して定法をつくった。これを総称して三塩問屋といった。塩問屋の利益は,塩船から買い入れた相場と塩仲買への卸売相場との差額分と,卸売相場の2分5厘(2.5%)の問屋口銭とであった。取扱量は近世後期,年間60万俵におよんでおり,このうち約10万俵が塩仲買を経て大坂三郷に配給されたが,残りは近江,山城,伊賀,丹波,河内,大和の諸国へ移出された。

 京都には1760年(宝暦10)ころ塩問屋(元塩屋と称す)24軒,他所買塩屋仲間105軒と小売の地買塩仲間が数百軒あった。1876年大阪から伏見に搬入された塩は12万4120石であった。

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世界大百科事典(旧版)内の塩問屋の言及

【下り塩】より

…また,常州下館の醸造家中村家でも享保期に年間1000俵から2000俵の竹原,波止浜,赤穂の塩を購入している。 江戸でこれら下り塩の流通に携わったのは,廻船下り塩問屋(下り廻船塩問屋)と塩仲買である。廻船下り塩問屋ができたのは1633年(寛永10)ころといわれているが,下り塩問屋,同仲買株が公認されたのは享保期である。…

【塩廻船(塩回船)】より

…江戸時代から明治期にかけて,瀬戸内十州塩田の産塩を大坂・江戸あるいは北国などの消費地に運送した廻船。十州塩田で生産される塩は,産地の塩問屋を介して塩廻船に販売されるのが普通であった。塩廻船の船籍地としては大坂をはじめ阿波,淡路,紀伊,伊勢,尾張および北国諸国が多い。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」