津原村(読み)つわらむら

日本歴史地名大系 「津原村」の解説

津原村
つわらむら

[現在地名]倉吉市津原

由良ゆら川中流域西方、久米くめはら台地末端に位置する。南はたに村、北西東亀谷ひがしかめだに(現大栄町)。嘉暦二年(一三二七)三月二五日の金持広顕願文(紀伊熊野本宮文書)に、伯耆国立縫たてぬい郷のうち津原村の地頭金持新三郎広顕・子息藤原松夜叉丸の名がみえ、ここにみえる津原村は当地のことであろう。藩政期の拝領高は五二六石余、本免五ツ一分。多田氏・津田氏・永田氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高五八〇石、竈数二〇余。大亀明神(狼大明神)・鍛冶広吉跡があった。


津原村
つはらむら

[現在地名]穂波町津原

嘉穂盆地の西部内住ないじゆ川の左岸に位置する。西は舎利蔵しやりくら村、北は明星寺みようじようじ(現飯塚市)。「続風土記」や「続風土記附録」などは枝村として久保白くぼしろ村をあげる。天正一九年(一五九一)一二月二〇日小早川氏家臣国貞甚左衛門が宛行われた二〇〇石のうちに津原村がみえ、田四町四反余・分米三四石余、畠一町四反余・分古銭一貫九一六文余(五石余)とある(「毛利氏奉行人連署坪付」萩藩閥閲録遺漏)。小早川時代の指出前之帳では津原村の田三五町九反余(分米三六〇石余)・畠三町三反余(分大豆一七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千二九五石余、うち大豆八五石余(慶長石高帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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