現守口市の淀川南岸地域をさす。古くには難波津につながる泊(港津)として機能していたと考えられ、平安―室町時代には掃部寮領大庭庄があった。また中世には大庭関が設けられているが、これも淀川舟運の要所であったことを示している。「行基年譜」の「天平十三年記」に「大庭堀川長八百丈、広十二丈、深八尺、在河内国茨田郡大庭里
」とみえる。また「住吉大社神代記」の「長柄船瀬本記」に
山城国与渡津
、浮
巨川
西行一日、謂
之河陽
、(中略)江河南北、邑々処々、分
流向
河内国
、謂
之江口
、盖典薬寮味原牧、掃部寮大庭庄也」とみえるのは、淀川を下った時の両岸の景観、熊野詣の帰途を記す「中右記」天仁二年(一一〇九)一一月八日条に「未一刻着窪津、(中略)此処乗船、(中略)或引綱手或棹迅瀬、心性歓楽、已似遊興、亥刻許行着大羽、着舟於岸脚、宿舟中」とあるのは、淀川をさかのぼって当地に至った舟運の記録である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…天皇の前に官人,百姓などが列立した〈朝庭(ちようてい)〉はこうした庭であり,平安時代,官庭,国庭,公庭(底の字が用いられることも多い)などの語によって知られるように,太政官,国衙などの公的機関にも,訴訟のさいの対決,裁判の行われる庭が存在した。寺院の衆徒の僉議(せんぎ)も庭で行われ,鎌倉幕府,室町幕府にも大庭と呼ばれた訴訟の場があったのである。当時,裁判手続上の誤り,奉行人の偏頗な審理のしかたを訴えることを庭中(ていちゆう)といったのも,この庭と関係がある。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」