浅岡信夫(読み)アサオカ ノブオ

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「浅岡信夫」の解説

浅岡 信夫
アサオカ ノブオ


職業
俳優 政治家

肩書
参院議員(自由党)

生年月日
明治32年 12月15日

出生地
広島県 広島市大手町

出身地
東京市 京橋区築地(東京都)

学歴
早稲田大学商学部〔大正12年〕卒

経歴
高田商会に勤めた後、日活に入社。文部省嘱託として渡米、帰国後、文化映画研究所代表者、多摩帝国美術学校幹事となった。その後中国渡航、昭和21年帰国し引揚団体および在外軍人邦人引揚促進会を設け、海外戦災同胞引揚同盟委員長、東急ベースボールクラブ取締役となった。22年第1回参院議員選挙に全国区当選、24年第3次吉田茂内閣の厚生政務次官となった。スポーツマンで第5回極東オリンピック槍投げで優勝した。

没年月日
昭和43年 11月12日 (1968年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「浅岡信夫」の解説

浅岡 信夫
アサオカ ノブオ


肩書
参院議員(自由党)

生年月日
明治32年12月15日

出生地
広島市大手町

出身地
東京市京橋区築地

学歴
早稲田大学商学部〔大正12年〕卒

経歴
高田商会に勤めた後、日活に入社。文部省嘱託として渡米、帰国後、文化映画研究所代表者、多摩帝国美術学校幹事となった。その後中国渡航、昭和21年帰国し引揚団体および在外軍人邦人引揚促進会を設け、海外戦災同胞引揚同盟委員長、東急ベースボールクラブ取締役となった。22年第1回参院議員選挙に全国区で当選、24年第3次吉田茂内閣の厚生政務次官となった。スポーツマンで第5回極東オリンピック槍投げで優勝した。

没年月日
昭和43年11月12日

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「浅岡信夫」の解説

浅岡 信夫
アサオカ ノブオ

昭和期の俳優,政治家 参院議員(自由党)。



生年
明治32(1899)年12月15日

没年
昭和43(1968)年11月12日

出生地
広島市大手町

出身地
東京市京橋区築地

学歴〔年〕
早稲田大学商学部〔大正12年〕卒

経歴
高田商会に勤めた後、日活に入社。文部省嘱託として渡米、帰国後、文化映画研究所代表者、多摩帝国美術学校幹事となった。その後中国渡航、昭和21年帰国し引揚団体および在外軍人邦人引揚促進会を設け、海外戦災同胞引揚同盟委員長、東急ベースボールクラブ取締役となった。22年第1回参院議員選挙に全国区で当選、24年第3次吉田茂内閣の厚生政務次官となった。スポーツマンで第5回極東オリンピック槍投げで優勝した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「浅岡信夫」の解説

浅岡信夫 あさおか-のぶお

1899-1968 昭和時代映画俳優,政治家。
明治32年12月15日生まれ。早大在学中の大正9年,極東オリンピックの槍(やり)投げで優勝。14年抜群の体格をみこまれ日活に入社,「母校の為めに」などの作品に出演した。戦後,海外戦災同胞引揚者同盟委員長などをつとめ,昭和22年参議院議員(自由党)。昭和43年11月12日死去。68歳。東京出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の浅岡信夫の言及

【活劇映画】より

…さらに,大陸(当時の支那,満州)を背景にした活劇も多くつくられた。《カルメン》を翻案した大久保忠素監督《灼熱の恋》(1924),若山治監督《国境を護る人々》(1926),三枝源次郎監督《シベリアお竜》(1926),上海ロケの村田実監督,浅岡信夫主演《神州男児の意気》(1926)等々である。筈見恒夫(《映画五十年史》)によれば,〈アメリカ西部劇の如き,活劇精神や,フロンティア・スピリットが,われわれの現代劇にも,時を得顔にはびこったのである〉。…

※「浅岡信夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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