日本歴史地名大系 「浅羽庄」の解説
浅羽庄
あさばのしよう
現浅羽町の中心部にあった摂関家の
暦応五年(一三四二)正月日の摂渡庄目録(九条家文書)によれば、代々太政官の外記を世襲し、明経道を家職とした中原師右相伝の所領で、面積は田六九町三段六〇歩となっている。当庄が勧学院領であったことはその後も変わらず、貞治六年(一三六七)には師右の長子師茂が、時の藤氏長者鷹司冬道から当庄安堵の長者宣を下されている(「師守記」同年八月三〇日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報