室町幕府第3代将軍。父は2代将軍義詮(よしあきら)。母は石清水八幡宮検校(いわしみずはちまんぐうけんぎょう)善法寺通清(ぜんぽうじつうせい)の娘紀良子(きのよしこ)。延文(えんぶん)3年8月22日生まれ。幼名春王。義満の生まれたのは、祖父尊氏(たかうじ)が亡くなった直後で、直義(ただよし)派残党の勢力はようやく衰えていたものの、南朝方の攻撃、幕府の内訌(ないこう)は激しく、4歳の義満さえ播磨(はりま)国(兵庫県)守護(しゅご)赤松則祐(あかまつそくゆう)の白旗(しらはた)城に難を逃れねばならなかった。1367年(正平22・貞治6)義詮は死に臨んで10歳の義満に家督を譲り、讃岐(さぬき)(香川県)から呼び寄せた細川頼之(よりゆき)を管領(かんれい)に任じて後事を託した。翌1368年、義満は元服し、征夷(せいい)大将軍に任ぜられ、1372年には判始(はんはじめ)の式を行っているが、幕政の実務は頼之の手にあった。頼之は室町幕府の集権的体制を強化することに努め、よく幕府の基礎を固めた。しかし、頼之の権力があまりに肥大化することを嫌った他の有力守護大名の反発を招き、1379年(天授5・康暦1)義満は頼之に帰国を命じ(康暦(こうりゃく)の政変)、斯波義将(しばよしまさ)を管領とした。これは、しだいに幕政の自専を志向し始めた義満自身の意志でもあったろう。1378年(天授4・永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住。義満時代の基礎を築き始めていたのである。義満は将軍権力を絶対化するため、有力守護大名たちの勢力削減に努めた。その最初の犠牲が、幕府創業以来の重臣土岐(とき)氏(1390)であった。ついで1391年(元中8・明徳2)、11か国の守護職をもち六分一衆とよばれた山名氏を討ち(明徳(めいとく)の乱)、1399年(応永6)には中国地方の雄族大内義弘(よしひろ)を滅ぼしている(応永(おうえい)の乱)。有力守護大名の一族を離間させ、ついには掃滅しようという義満に、彼らは反幕の兵をあげて応じたが、巧みな義満の術策の前に敗れ去ったのである。こうした反幕軍はしばしば南朝を担いで自らの正統性の根拠としたが、1392年(元中9・明徳3)義満は、南朝の御亀山(ごかめやま)天皇に神器を北朝の御小松(ごこまつ)天皇へ譲り渡させ、事実上南朝を否定した(南北朝合一)。反幕勢力を圧伏する方法は戦闘に限らなかった。義満は、1386年(元中3・至徳3)天橋立(あまのはしだて)の景勝遊覧に出かけたのをはじめ、1403年(応永10)までの間に諸国を遊覧したが、その真意は幕府権力の示威や、将軍に対する臣従を確認するためであった。それは、守護大名に限らず、寺社勢力に対するものでもあった。とくに寺院統制の面では、五山(ござん)制度を整備し、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を僧録に任じ禅宗教団を管理すると同時に、経済的にも厚い保護を加え、五山文化を盛行させた。
反幕勢力を制圧し、将軍独裁制を築きながら義満は、将軍職在任のまま、1382年(弘和2・永徳2)には左大臣、翌1383年には准三后(じゅさんごう)宣下を受けた。そして、1394年(応永1)には将軍職を子の義持(よしもち)に譲り太政(だいじょう)大臣となったが、将軍としての実権は従前どおり義満自身が握ったままであった。1395年太政大臣を辞して出家して以後、自らを法皇に擬せんとし、ついで北山第(きたやまてい)を仙洞(せんとう)御所に擬して造営した。金閣はこの山荘の一部である。義満はここで政務をとり、公武上層貴族を集めて、和歌、連歌、管弦、猿楽など種々の催しに興じ、宋(そう)・元(げん)の名画を収集して、ここに北山文化を花開かせた。
外交に関して義満は、貿易の利と、国家主権者の表徴たる外交権を手中に収めるため、元寇(げんこう)以来中断していた中国との国交を1401年(応永8)に正式に再開した。先述した応永の乱は、私的に海外貿易を掌握する大内氏を討つためでもあった。翌1402年の明(みん)使の詔書には「日本国王源道義」と記され、義満自身「日本国王臣源」として返書を送り、倭寇(わこう)を鎮圧して明の冊封(さくほう)を受けた。こうした明に対する追従外交には当時から非難の声があったが、事実上日本の国家を統一した実力者でありながら、形式的には天皇の下にあることに対する不満を解消する意図だったのであろう。
1408年(応永15)3月、義満は後小松天皇を北山第(きたやまてい)に迎え、翌4月には、寵児(ちょうじ)義嗣(よしつぐ)(義持の異母弟)を親王の儀に準じて元服させた。これも、従来の将軍の地位を超えた、公武に君臨する自らの地位を確固たるものとするための布石だったのであろう。しかし、義満は咳病(がいびょう)を患って、5月6日北山第に急逝した。51歳。法号は鹿苑院(ろくおんいん)天山道義。墓は相国寺(しょうこくじ)鹿苑院にある。朝廷からは太上(だじょう)天皇の尊号を与えようとしたが、義持はこれを固辞した。後継者は斯波義将らの支持で、現将軍義持と定められた。
[田中博美]
『臼井信義著『足利義満』(1960・吉川弘文館)』▽『佐藤進一著『日本を創った人びと11 足利義満』(1980・平凡社)』
室町幕府3代将軍。2代将軍足利義詮の長子。母は石清水八幡宮の検校善法寺通清の女,紀良子。幼名は春王。義満生誕のころに,観応の擾乱(じようらん)の余波はようやく終息に向かっていたが,新たに幕府内に権臣の争いが起こり,1361年(正平16・康安1)幕府の執事細川清氏が離反して南朝に投じ,南朝軍とともに京都を急襲すると,将軍義詮は近江に走り,4歳の義満は建仁寺に隠れたのち,播磨に逃れて守護赤松則祐の庇護を受けた。
67年(正平22・貞治6)義詮は四国の大守護細川頼之を迎えて管領とし,10歳の義満をこれに託して病没。ここに義満は足利の家督を継ぎ,翌年元服して征夷大将軍の宣下を受けたが,幕政はなお管領頼之の主宰にゆだね,義満みずから政務を見るのは72年(文中1・応安5)からである。これより朝官しきりに進められて80年(天授6・康暦2)に従一位,翌年父祖の例を超えて内大臣,ついで左大臣・院別当となり,83年(弘和3・永徳3)には源氏の長者となり,武家で初めての准三宮を与えられた。義満は公武を統一する支配者の道を歩みはじめたのである。
義満はまた永和のころ京都の北小路室町の地に壮麗な新邸を造営して,ここに移り,1381年後円融天皇の行幸を仰いで新邸の善美を内外に誇示した。新邸は四季の花木や諸家から召し上げた名木で飾られて花御所と呼ばれ,義満は室町殿と呼ばれた。政権の呼称としての室町幕府の名はここに由来する。
義満の治政で特筆すべき最初の事業は,父祖2代にわたって進められた王朝・本所権力を幕府に吸収する作業の総仕上げであって,84年(元中1・至徳1)以降,幕府の侍所が洛中所領裁判における判決の執行を担当し,93年(明徳4)洛中の土倉・酒屋等の金融業者に対する社寺・貴族の私的支配を排除して,幕府の課税権を確立するなど,京都市政権吸収工作の進展によって,これを察することができる。
第2の,そして義満にとって最も困難だった事業は,幕府創業以来,将軍の統制に服さず分権を志向する大守護を弾圧して,将軍権力の確立に大きな成功を収めたことである。まず1387年(元中4・嘉慶1)伊勢・尾張・美濃3国の守護土岐頼康が没すると,同氏の内紛に乗じて頼康の嗣子康行を討ち,伊勢・尾張を没収(土岐氏の乱),ついで山陰の大守護山名氏の勢力削減を策して,同氏の一族氏清・満幸を弾圧し,91年(元中8・明徳2)氏清らが兵を起こすのを待って,これを京郊内野に滅ぼし(明徳の乱),次に九州探題として赴任後20年の努力によってようやく九州統一に成功した今川貞世(了俊)が,やがて周防・長門の守護で北九州に進出した大内義弘と覇を競い,ことに朝鮮との通交貿易の窓口として探題独自の権力の樹立を目ざすと見るや,95年(応永2)にわかに貞世の探題職を罷免し,さらに,大内義弘が今川の失脚後いっそう朝鮮との関係を深めて九州探題をしのぐ大勢力となったばかりか,明徳に滅びた山名に代わって和泉・紀伊の守護職も併せて中央政治への影響力を確保する段階に達すると,99年義弘を和泉の堺城に討って,大内氏の伸張に強い一撃を加えたのであった(応永の乱)。
義満の第3の事業は南朝の合併による王朝の統一であった。1392年義満は,後醍醐天皇以来4代にわたって吉野の山中に皇位の正統を唱えて,北朝=幕府に抵抗しつづけてきた南朝に和平の申入れを行った。南帝後亀山天皇は譲国の儀をもって神器を北朝の後小松天皇に渡す,今後皇位は大覚寺統(南朝)・持明院統(北朝)交互とするなどの条件が義満側から示され,後亀山はこれをいれて帰京し,神器は後小松に渡された。57年に及んだ南北両朝分裂の歴史はここにその幕をとじた。
94年義満は将軍職を長子義持に譲って太政大臣に昇り,翌年出家して道有(のち道義)と号し,なお依然として政務を見た。そして97年洛北の北山に3層金箔の舎利殿(金閣)以下多数の殿舎より成る北山第を造営して,ここを政庁に兼ねて公武貴族社交の場とした(鹿苑寺)。義満はまた,出家の前後より法皇なみの格式で内外の儀式に臨むことが多くなり,やがて妻の日野康子(北山院)に天皇の母なみの,また愛児義嗣に親王なみの待遇を与えるなど,天皇家と一体化の道を推し進めた。
義満が天下統一事業の最後に行ったのは日明通交の開始であった。すでに明は建国以来たびたび使節を日本に送って倭寇の鎮圧を求め,臣従を促したが,ついに1401-04年の間,数次にわたる日明国使の往復の末,明帝は義満を日本国王と認めて,暦と印を与え,義満はこれを受けて明の正朔を奉ずる冊封関係およびこの関係を前提とする日明公貿易(勘合貿易)の制度が成立した。
義満はまた禅宗寺院統制のために五山制度を整備し(五山・十刹・諸山),義堂周信,春屋妙葩(しゆんおくみようは)らの禅僧を重用したほか,自身和歌,連歌,楽,書に秀で,猿楽を好んで世阿弥を愛し,中国渡来の文物を愛玩するなど,文化の面でも傑出した指導者であった。
執筆者:佐藤 進一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(今谷明)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
1358.8.22~1408.5.6
室町幕府の3代将軍(1368.12.30~94.12.17)。2代義詮(よしあきら)の子,母は紀良子。法名鹿苑院天山道義・道有。1367年(貞治6・正平22)父の死で家督を譲られ,翌年11歳で将軍,管領細川頼之に補佐された。78年(永和4・天授4)北小路室町の新第(花御所)に移る。翌年頼之を解任して斯波義将(しばよしゆき)にかえた。父祖の例をこえて内大臣に進むと,諸儀を摂関家にならい,武家としてはじめて准三宮ともされた。91年(明徳2・元中8)山名氏清を滅ぼし,翌年南北朝合一を達成。94年(応永元)将軍職を辞したのち太政大臣に任じられたが,翌年出家。99年,仙洞(せんとう)を模した北山第へ移り,みずからを法皇に擬す。同年大内義弘らを討って西国支配を強化,1401年には明に国書を送って国交を開き,冊封をうけて日本国王と認められた。06年,妻日野康子が天皇の准母として北山院の院号宣下(せんげ)をうけ,08年4月に愛児義嗣が内裏で親王に准じて元服の儀を行うなど,天皇家との一体化を推進。没後,朝廷は太上法皇号を贈ろうとしたが,子の義持は固辞した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…その前後の醍醐寺での演能以来京洛に名声が高まり,京極道誉や海老名南阿弥ら有力者にも引き立てられた。 75年(天授1∥永和1)かその前年かに子の世阿弥(当時12歳)を伴って京都の今熊野で猿楽能を催したが,それを将軍足利義満が見物し,以来彼は観世親子に絶大な後援を与えるようになった。そのおかげで,観阿弥は天下に名声を挙げ,観世大夫が将軍のお抱え役者的地位を占めるに至ったのである。…
…室町前期の文化を,のちの東山文化に対比していう呼称。室町幕府第3代将軍足利義満が,1398年(応永5)に営んだ北山山荘(鹿苑寺はその一部)に象徴させた,文化史上の用語であるが,猿楽者の十二(じゆうに)五郎太夫康次が世阿弥にあてた1428年(正長1)の書状のなかに,〈北山の時分〉に指導を受けたことを感謝する文面が見えるから(《申楽談儀》),義満の時代を北山で表すのは,早くからのものであったことが知られる。ただし文化史上の時代区分としては,子の義持(よしもち)から義教(よしのり)の時代まで含めてよいであろう。…
…後世ではたとえば清制の貴妃や親王,郡王,貝勒(ベイレ),公主,夫人等の任命をこの語でよんだように,封侯身分と観念されるものの叙任を意味した。冊封の対象は内臣にとどまらず外族にも及び,倭の女王卑弥呼が曹魏朝から〈親魏倭王〉に封ぜられたり,足利義満,豊臣秀吉が明朝から〈日本国王〉に封ぜられたのも冊封の例になる。冊書は本来は竹簡を編綴した竹冊であったが,後世は玉冊や綾錦の類も使用された。…
…延暦寺の衆徒は,南北朝の内乱の初め,後醍醐天皇方について足利尊氏ら武家勢力を悩まして以来,南北朝時代を通じことあるごとに嗷訴(ごうそ)をもって室町幕府,北朝を威嚇し,その統制は幕府の積年の懸案であった。この懸案解決の道を,山門使節の創設に見いだしたのは,3代将軍足利義満である。義満は衆徒のなかにあって勢力を振るっていた杉生坊,金輪院,円明坊といった〈大名〉の山徒を山門使節として組織化,彼らを通じて間接的に衆徒らを統制していこうとした。…
…数多い田楽(でんがく)や猿楽の能役者が芸を競う中から,観阿弥が抜け出る要因となった音曲改革に取り組んだのは世阿弥の幼年期であり,京洛に観阿弥の名声を高めた醍醐寺での猿楽(年不明)には子の世阿弥も出演していた。世阿弥が12歳の年(1375年の永和1年か前年の応安7年)に,観阿弥が洛東今熊野で催した猿楽能を将軍足利義満が見物し,以来彼は観世父子に絶大な庇護を加える。世阿弥の可憐さが5,6歳年長だった義満を魅了したらしい。…
…清和天皇の皇子・皇孫である賜姓源氏とその子孫。そのうちで最も栄え,清和源氏の代表的存在と見られたのは,第6皇子貞純親王の皇子経基王の系統である。
[経基王系の発展]
経基王は武蔵介として平将門の乱の鎮定に努力し,961年(応和1)に源姓を与えられた。その子満仲は摂津守となり,また摂津国多田地方(現,兵庫県川西市)に開発領主として土着し,多田荘を経営して多田院を創立した。なおこの満仲と経基との関係には若干の疑問も残されているが,《尊卑分脈》の系図にしたがって父子関係を認めるのが現在の定説である。…
…1389‐90年(元中6∥康応1‐元中7∥明徳1)将軍足利義満が土岐氏の内紛に介入して土岐氏の勢力を削減させた乱。美濃の乱ともいう。…
…南北朝末期の遁世(とんせい)者。将軍足利義満に仕え,海老名(えびな)の南阿弥陀仏と呼ばれた。能の愛好者で,連歌をはじめ諸芸能にたんのうであったらしい。…
…大和猿楽の中心は興福寺支配の4座,すなわち円満井(えんまい),坂戸,外山(とび),結崎(ゆうざき)の座で,これが後に金春(こんぱる)座(金春流),金剛座(金剛流),宝生座(宝生流),観世座(観世流)と呼ばれるようになる。結崎座を率いる観世という名の役者(後の観阿弥)は,技芸抜群のうえくふうに富み,将軍足利義満の愛顧を得て京都に進出し,座勢を大いに伸ばした。観阿弥の功績は,物まね本位だった大和猿楽に,近江猿楽や田楽の歌舞的に優れた面をとり入れたこと,伝統であった強い芸風を幽玄(優美とほぼ同義)な芸風に向かわせたこと,リズムを主とした曲舞(くせまい)の曲節を導入したことなどである。…
…馬につける装具を総称して馬具という。ただし,一般に馬具というと騎馬の装具を指し,車馬具と区別して用いることがこれまで多かった。車馬具というのは,車の部品および馬の装具として用いられた青銅金具であって,中国の殷・周時代に王や諸侯の大墓に添えて葬られた車馬坑からともに出土し,また甲骨文には〈車馬〉の語が用いられ,周室の臣が天子に朝見して官職・車服を賜ったことを青銅器に刻んだ金文には,車とともに馬匹が記されているから,車馬具として一括することは十分に意味がある。…
…しかしこれは征夷大将軍即幕府とする形式的な考え方であり,最近ではこれらよりやや早い時期に,それぞれの幕府の実質的な成立時期を求めるのが普通である。足利義満は1368年(正平23∥応安1)征夷大将軍に任ぜられ,78年(天授4∥永和4)右馬寮御監となり,83年(弘和3∥永徳3)久我氏にかわって源氏の長者となり,淳和・奨学両院別当となったが,以後歴代の将軍はこれらの地位を兼ねるのが慣例となり,徳川氏もこれにならった。室町時代には清和源氏の流が征夷大将軍となるという原則が定着した。…
…1378年(天授4∥永和4)足利義満によって京都に造営された将軍邸。その敷地は,北は柳原通,南は北小路(現在の今出川通),東は烏丸通,西は室町通によって囲まれた南北2町,東西1町であった。…
…この前後,寺社公家などの本所領に関する裁判権は朝廷から漸次幕府に移行し,検非違使庁が握っていた京都市中の刑事警察権は幕府侍所に移され,段銭(たんせん)などの臨時財産税も守護にその徴収権が付与されるなど,頼之の執政は幕府権力確立の上できわめて重大な役割と画期を有している。 3代将軍足利義満の親政が始まる南北朝末期は,細川,山名,土岐,大内らの有力守護を巧みな懐柔と挑発によって弾圧し,92年(元中9∥明徳3)には南朝の神器を接収して内乱を終息させ,将軍権力は比類ないまでに強化された。義満は従一位,内大臣,左大臣,准三后を歴任し,王朝の支配権をほとんど簒奪し,義満の意志による伝奏奉書を発給させて形式的にも公武両権力の頂点に立つ専制君主となり,1401年(応永8)の対明外交開始に当たって国書に〈日本国王〉と自署したのである(日明貿易)。…
…足利一門斯波氏の最大の支持勢力となった山名氏は,幕府の権勢者佐々木高氏(道誉)の勢力を山陰地方から払拭していっそう強大となり,乱当時の山名氏一族の守護国は先の5ヵ国に出雲,但馬,隠岐,山城,和泉,紀伊の6ヵ国を加えて11ヵ国になり,六分の一衆と称された。3代将軍足利義満は南朝勢力の圧服を背景に,将軍専制権力確立の手段として,直属軍事力の強化とともに,強大化した守護勢力の削減を意図していた。明徳の乱のほか土岐氏の乱(1390),応永の乱(1399),さらに東国における小山義政の乱(1380‐82)も,こうした幕府,将軍側の意図で挑発され惹起された事件である。…
…京における観阿弥,世阿弥の事績としては,1372‐74年(文中1‐3∥応安5‐7)ころの醍醐寺における7日間の勧進猿楽(勧進能),および同じ74年か75年(天授1∥永和1)の今熊野神社の猿楽が最も古く,いずれも観阿弥とともに子の世阿弥の芸が世人の注目を浴びたらしい。とりわけ今熊野神社での猿楽は将軍足利義満の初めての能見物で,観世座が将軍愛顧の座として発展していく契機となった。観世座の進出以前に京で活動していたのは摂津の榎並猿楽であるが,1424年(応永31)醍醐寺清滝宮の楽頭職(がくとうしき)も榎並から世阿弥の手に移っている。…
…北山と号し,通称〈金閣寺〉で有名。現寺地辺には公家の西園寺家の山荘があったが,これを足利義満が譲り受けて,1397年(応永4)から北山殿(きたやまどの)の造営に着手し,翌年義満はここに移った。以後1408年の義満没年までの10年間,北山殿は室町幕府政治の中心となった。…
※「足利義満」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新