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足利義満 あしかが よしみつ

美術人名辞典の解説

足利義満

室町幕府三代将軍。二代将軍義詮の男。幼名は春王。父の死後10才で家督を継ぎ、応安元年将軍に就任した。成人後管領細川頼之を廃し親政を開始、南北朝合体や土岐山名大内氏の弾圧、明との国交回復に成功し、幕府権力を確立した。また朝儀にも精通し、太政大臣として朝廷内でも権力を奮った。出家後は京都北山金閣を建て、いわゆる北山文化を開花させた。応永15年(1408)歿、49才。

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百科事典マイペディアの解説

足利義満【あしかがよしみつ】

室町幕府3代将軍。在職は1368年−1394年。義詮(よしあきら)の子。従(じゅ)一位太政大臣。1371年以降今川了俊に九州を統一させた。1391年に山名氏清,1399年に大内義弘の反乱を鎮圧,強力守護の勢力を弱める一方,1392年南北朝の合一を実現し,幕府権力を確立した。
→関連項目足利氏足利義持宇治牛窓津応永の乱鎌倉公方官寺楠木正儀後亀山天皇冊封体制執事斯波義将春屋妙葩相国寺朝貢貿易土岐氏日本国王畠山満家日野家奉公衆満済満済准后日記室町幕府明徳の乱大和猿楽山中郷鹿王院

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

足利義満 あしかが-よしみつ

1358-1408 室町幕府3代将軍。在職1369*-95*。
延文3=正平(しょうへい)13年8月22日生まれ。足利義詮(よしあきら)の長男。母は紀良子(きの-よしこ)。応安元=正平23年11歳で将軍職をつぐ。管領(かんれい)細川頼之(よりゆき)の補佐をうけ幕府の基礎をかためるが,のち頼之を廃し斯波義将(しば-よしまさ)を管領として幕府権力を確立,明徳2=元中8年山名氏清(うじきよ)をほろぼし(明徳の乱),翌年には南北朝を合体させた。応永元年子の義持に将軍職をゆずって太政大臣となり,翌年出家。京都北山に金閣寺をその一部とする北山第(てい)を造営して北山殿とよばれた。8年明(みん)(中国)と国交を再開,「日本国王」として冊封をうけた。応永15年5月6日死去。51歳。幼名は春王。法名は道有,道義。法号は鹿苑(ろくおん)院。
【格言など】当家の運と山名一家の運とを天の照覧に任せよう(山名一族の反乱に対して)

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朝日日本歴史人物事典の解説

足利義満

没年:応永15.5.6(1408.5.31)
生年:延文3/正平13.8.22(1358.9.25)
室町幕府第3代将軍。在職期間は応安1/正平23(1368)年から応永1(1394)年まで。幼名春王。義詮 の子。母は石清水神官善法寺通清の娘の紀良子。母は順徳天皇の玄孫に当たり,その姉妹,仲子崇賢門院は後円融天皇の生母である。すなわち義満は,母系で順徳5世の裔であるとともに後円融の従兄弟という,二重の意味で皇族の縁戚であった。官は左馬頭,征夷大将軍,参議左中将,権大納言右大将,兼右馬寮御監,内大臣,左大臣,太政大臣を歴任,永徳3(1383)年より准三宮。 康安1/正平16年4歳のとき,南軍の入京で一時赤松則祐の播磨白旗城に避難。9歳で後光厳天皇から義満の名を賜る。貞治6/正平22年末,父義詮の病死とともに足利家督(室町殿)を継ぎ,翌年将軍に就任,以後康暦の政変(1379)で管領細川頼之が失脚するまでその補佐を受ける。頼之の後任には斯波義将が就任したが,すでに成人に達していた義満は親政を開始。さらに義満は公卿界で累進するとともに二条良基の教導で朝儀にも精通し,永徳3/弘和3(1383)年には源氏長者,淳和・奨学両院別当をあわせ,准三宮宣下を受け朝廷内で絶大な権力を振るった。このことは後円融上皇を圧迫し,同年2月に起こった上皇の上臈局刃傷および自殺未遂事件は,両者の軋轢によるものである。一方で義満は,台頭する地方の有力守護の勢力削減に意を用い,明徳1/元中7(1390)年の美濃の乱,翌年の明徳の乱,応永6年には応永の乱によって土岐,山名,大内各氏を挑発しては弾圧することに成功した。またこの間,明徳3/元中9年には南朝から神器を接収し絶大な軍事的カリスマ性を帯び,もはや国内で抵抗する者は皆無であった。義堂周信の感化で『孟子』に親しみ,中国の革命思想に共感を覚え,やがて義満は王権簒奪の野望を抱くに至る。 応永2年,出家して道義と号した。同8年明との国交を回復,翌9年には建文帝から「日本国王」に冊封され,勘合貿易による中国銭の一方的頒賜という形で貨幣発行権を掌握した。明徳4年に後円融が没すると上皇の王権を吸収して事実上の院政を開き,公家の官職任免に伴う拝賀奏慶や門跡の院務始の礼を北山第で行うよう強制,自らの参内出仕はすべて上皇の儀礼に準じ,伝奏を秘書として「国王御教書」すなわち伝奏奉書を発給して形式上も公武両勢力の頂点に立った。また北山第で顕密高僧による巡祈祷,土御門邸での陰陽道祭という月例の七日七夜の国王の祭祀を制度化し,天皇の神道祭祀の形骸化を図りつつ,自ら「百王説」を廷臣らに質して簒奪正当化の瀬踏みを試みている。かくて応永13年末には通陽門院の病没を足掛りに正妻日野康子を准母とすることに成功し,翌々年には次男義嗣を皇位候補として北山第行幸を仰ぎ,義嗣の親王元服を行うが,自らの上皇位が目前に迫った同年5月,急死。壮図は挫折した。<参考文献>佐藤進一『足利義満』,今谷明『室町の王権』

(今谷明)

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防府市歴史用語集の解説

足利義満

 室町幕府3代将軍で、金閣[きんかく]を建てたことで有名です。1391年に、それまで2つにわかれていた朝廷[ちょうてい]をまとめました。大内義弘[おおうちよしひろ]らを討って、国内の支配力を強めたほか、中国の明[みん]と国交を開いています。

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世界大百科事典 第2版の解説

あしかがよしみつ【足利義満】

1358‐1408(正平13∥延文3‐応永15)
室町幕府3代将軍。2代将軍足利義詮長子。母は石清水八幡宮の検校善法寺通清の女,紀良子。幼名は春王。義満生誕のころに,観応擾乱(じようらん)の余波はようやく終息に向かっていたが,新たに幕府内に権臣の争いが起こり,1361年(正平16∥康安1)幕府の執事細川清氏が離反して南朝に投じ,南朝軍とともに京都を急襲すると,将軍義詮は近江に走り,4歳の義満は建仁寺に隠れたのち,播磨に逃れて守護赤松則祐の庇護を受けた。

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大辞林 第三版の解説

あしかがよしみつ【足利義満】

1358~1408) 室町幕府三代将軍(在職1368~1394)。義詮よしあきらの子。号は鹿苑院殿。1378年室町殿造営。92年南北朝合一を成しとげ、有力守護大名を抑えて幕府権力を確立し、94年将軍職を義持に譲る。97年北山に金閣を建て、北山殿と呼ばれた。1401年明に入貢、貿易につとめた。 → 勘合貿易

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

足利義満
あしかがよしみつ

[生]正平13=延文3 (1358).8.22. 京都
[没]応永15 (1408).5.6. 京都
室町幕府 3代将軍(在職 1368~94)。足利義詮の子。母は紀良子。父の病により正平22=貞治6(1367)年政務を譲られ,以来元中7=明徳1(1390)年土岐康行,翌年起こった明徳の乱で山名氏清,応永6(1399)年に起こった応永の乱では大内義弘を滅ぼして将軍の権威を高めた。元中9=明徳3(1392)年には南北朝合体を成し遂げ,天下を統一した。応永1(1394)年太政大臣となり,将軍職を子の足利義持に譲り,翌年出家したが死ぬまで実権を握っていた。室町に花の御所(→室町殿)を建て,晩年北山殿を営んでいる(→北山文化)。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

足利義満
あしかがよしみつ
(1358―1408)

室町幕府第3代将軍。父は2代将軍義詮(よしあきら)。母は石清水八幡宮検校(いわしみずはちまんぐうけんぎょう)善法寺通清(ぜんぽうじつうせい)の娘紀良子(きのよしこ)。延文(えんぶん)3年8月22日生まれ。幼名春王。義満の生まれたのは、祖父尊氏(たかうじ)が亡くなった直後で、直義(ただよし)派残党の勢力はようやく衰えていたものの、南朝方の攻撃、幕府の内訌(ないこう)は激しく、4歳の義満さえ播磨(はりま)国(兵庫県)守護(しゅご)赤松則祐(あかまつそくゆう)の白旗(しらはた)城に難を逃れねばならなかった。1367年(正平22・貞治6)義詮は死に臨んで10歳の義満に家督を譲り、讃岐(さぬき)(香川県)から呼び寄せた細川頼之(よりゆき)を管領(かんれい)に任じて後事を託した。翌1368年、義満は元服し、征夷(せいい)大将軍に任ぜられ、1372年には判始(はんはじめ)の式を行っているが、幕政の実務は頼之の手にあった。頼之は室町幕府の集権的体制を強化することに努め、よく幕府の基礎を固めた。しかし、頼之の権力があまりに肥大化することを嫌った他の有力守護大名の反発を招き、1379年(天授5・康暦1)義満は頼之に帰国を命じ(康暦(こうりゃく)の政変)、斯波義将(しばよしまさ)を管領とした。これは、しだいに幕政の自専を志向し始めた義満自身の意志でもあったろう。1378年(天授4・永和4)には、室町に新邸(花の御所)を造営して移住。義満時代の基礎を築き始めていたのである。義満は将軍権力を絶対化するため、有力守護大名たちの勢力削減に努めた。その最初の犠牲が、幕府創業以来の重臣土岐(とき)氏(1390)であった。ついで1391年(元中8・明徳2)、11か国の守護職をもち六分一衆とよばれた山名氏を討ち(明徳(めいとく)の乱)、1399年(応永6)には中国地方の雄族大内義弘(よしひろ)を滅ぼしている(応永(おうえい)の乱)。有力守護大名の一族を離間させ、ついには掃滅しようという義満に、彼らは反幕の兵をあげて応じたが、巧みな義満の術策の前に敗れ去ったのである。こうした反幕軍はしばしば南朝を担いで自らの正統性の根拠としたが、1392年(元中9・明徳3)義満は、南朝の御亀山(ごかめやま)天皇に神器を北朝の御小松(ごこまつ)天皇へ譲り渡させ、事実上南朝を否定した(南北朝合一)。反幕勢力を圧伏する方法は戦闘に限らなかった。義満は、1386年(元中3・至徳3)天橋立(あまのはしだて)の景勝遊覧に出かけたのをはじめ、1403年(応永10)までの間に諸国を遊覧したが、その真意は幕府権力の示威や、将軍に対する臣従を確認するためであった。それは、守護大名に限らず、寺社勢力に対するものでもあった。とくに寺院統制の面では、五山(ござん)制度を整備し、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を僧録に任じ禅宗教団を管理すると同時に、経済的にも厚い保護を加え、五山文化を盛行させた。
 反幕勢力を制圧し、将軍独裁制を築きながら義満は、将軍職在任のまま、1382年(弘和2・永徳2)には左大臣、翌1383年には准三后(じゅさんごう)宣下を受けた。そして、1394年(応永1)には将軍職を子の義持(よしもち)に譲り太政(だいじょう)大臣となったが、将軍としての実権は従前どおり義満自身が握ったままであった。1395年太政大臣を辞して出家して以後、自らを法皇に擬せんとし、ついで北山第(きたやまてい)を仙洞(せんとう)御所に擬して造営した。金閣はこの山荘の一部である。義満はここで政務をとり、公武上層貴族を集めて、和歌、連歌、管弦、猿楽など種々の催しに興じ、宋(そう)・元(げん)の名画を収集して、ここに北山文化を花開かせた。
 外交に関して義満は、貿易の利と、国家主権者の表徴たる外交権を手中に収めるため、元寇(げんこう)以来中断していた中国との国交を1401年(応永8)に正式に再開した。先述した応永の乱は、私的に海外貿易を掌握する大内氏を討つためでもあった。翌1402年の明(みん)使の詔書には「日本国王源道義」と記され、義満自身「日本国王臣源」として返書を送り、倭寇(わこう)を鎮圧して明の冊封(さくほう)を受けた。こうした明に対する追従外交には当時から非難の声があったが、事実上日本の国家を統一した実力者でありながら、形式的には天皇の下にあることに対する不満を解消する意図だったのであろう。
 1408年(応永15)3月、義満は後小松天皇を北山第(きたやまてい)に迎え、翌4月には、寵児(ちょうじ)義嗣(よしつぐ)(義持の異母弟)を親王の儀に準じて元服させた。これも、従来の将軍の地位を超えた、公武に君臨する自らの地位を確固たるものとするための布石だったのであろう。しかし、義満は咳病(がいびょう)を患って、5月6日北山第に急逝した。51歳。法号は鹿苑院(ろくおんいん)天山道義。墓は相国寺(しょうこくじ)鹿苑院にある。朝廷からは太上(だじょう)天皇の尊号を与えようとしたが、義持はこれを固辞した。後継者は斯波義将らの支持で、現将軍義持と定められた。[田中博美]
『臼井信義著『足利義満』(1960・吉川弘文館) ▽佐藤進一著『日本を創った人びと11 足利義満』(1980・平凡社)』

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367日誕生日大事典の解説

足利義満 (あしかがよしみつ)

生年月日:1358年8月22日
南北朝時代;室町時代の室町幕府第3代の将軍
1408年没

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世界大百科事典内の足利義満の言及

【観阿弥】より

…その前後の醍醐寺での演能以来京洛に名声が高まり,京極道誉や海老名南阿弥ら有力者にも引き立てられた。 75年(天授1∥永和1)かその前年かに子の世阿弥(当時12歳)を伴って京都の今熊野で猿楽能を催したが,それを将軍足利義満が見物し,以来彼は観世親子に絶大な後援を与えるようになった。そのおかげで,観阿弥は天下に名声を挙げ,観世大夫が将軍のお抱え役者的地位を占めるに至ったのである。…

【北山文化】より

…室町前期の文化を,のちの東山文化に対比していう呼称。室町幕府第3代将軍足利義満が,1398年(応永5)に営んだ北山山荘(鹿苑寺はその一部)に象徴させた,文化史上の用語であるが,猿楽者の十二(じゆうに)五郎太夫康次が世阿弥にあてた1428年(正長1)の書状のなかに,〈北山の時分〉に指導を受けたことを感謝する文面が見えるから(《申楽談儀》),義満の時代を北山で表すのは,早くからのものであったことが知られる。ただし文化史上の時代区分としては,子の義持(よしもち)から義教(よしのり)の時代まで含めてよいであろう。…

【冊封】より

…後世ではたとえば清制の貴妃や親王,郡王,貝勒(ベイレ),公主,夫人等の任命をこの語でよんだように,封侯身分と観念されるものの叙任を意味した。冊封の対象は内臣にとどまらず外族にも及び,倭の女王卑弥呼が曹魏朝から〈親魏倭王〉に封ぜられたり,足利義満,豊臣秀吉が明朝から〈日本国王〉に封ぜられたのも冊封の例になる。冊書は本来は竹簡を編綴した竹冊であったが,後世は玉冊や綾錦の類も使用された。…

【山門使節】より

…延暦寺の衆徒は,南北朝の内乱の初め,後醍醐天皇方について足利尊氏ら武家勢力を悩まして以来,南北朝時代を通じことあるごとに嗷訴(ごうそ)をもって室町幕府,北朝を威嚇し,その統制は幕府の積年の懸案であった。この懸案解決の道を,山門使節の創設に見いだしたのは,3代将軍足利義満である。義満は衆徒のなかにあって勢力を振るっていた杉生坊,金輪院,円明坊といった〈大名〉の山徒を山門使節として組織化,彼らを通じて間接的に衆徒らを統制していこうとした。…

【世阿弥】より

…数多い田楽(でんがく)や猿楽の能役者が芸を競う中から,観阿弥が抜け出る要因となった音曲改革に取り組んだのは世阿弥の幼年期であり,京洛に観阿弥の名声を高めた醍醐寺での猿楽(年不明)には子の世阿弥も出演していた。世阿弥が12歳の年(1375年の永和1年か前年の応安7年)に,観阿弥が洛東今熊野で催した猿楽能を将軍足利義満が見物し,以来彼は観世父子に絶大な庇護を加える。世阿弥の可憐さが5,6歳年長だった義満を魅了したらしい。…

【清和源氏】より

…清和天皇の皇子・皇孫である賜姓源氏とその子孫。そのうちで最も栄え,清和源氏の代表的存在と見られたのは,第6皇子貞純親王の皇子経基王の系統である。
[経基王系の発展]
 経基王は武蔵介として平将門の乱の鎮定に努力し,961年(応和1)に源姓を与えられた。その子満仲は摂津守となり,また摂津国多田地方(現,兵庫県川西市)に開発領主として土着し,多田荘を経営して多田院を創立した。なおこの満仲と経基との関係には若干の疑問も残されているが,《尊卑分脈》の系図にしたがって父子関係を認めるのが現在の定説である。…

【土岐氏の乱】より

…1389‐90年(元中6∥康応1‐元中7∥明徳1)将軍足利義満が土岐氏の内紛に介入して土岐氏の勢力を削減させた乱。美濃の乱ともいう。…

【南阿弥】より

…南北朝末期の遁世(とんせい)者。将軍足利義満に仕え,海老名(えびな)の南阿弥陀仏と呼ばれた。能の愛好者で,連歌をはじめ諸芸能にたんのうであったらしい。…

【能】より

…大和猿楽の中心は興福寺支配の4座,すなわち円満井(えんまい),坂戸,外山(とび),結崎(ゆうざき)の座で,これが後に金春(こんぱる)座(金春流),金剛座(金剛流),宝生座(宝生流),観世座(観世流)と呼ばれるようになる。結崎座を率いる観世という名の役者(後の観阿弥)は,技芸抜群のうえくふうに富み,将軍足利義満の愛顧を得て京都に進出し,座勢を大いに伸ばした。観阿弥の功績は,物まね本位だった大和猿楽に,近江猿楽や田楽の歌舞的に優れた面をとり入れたこと,伝統であった強い芸風を幽玄(優美とほぼ同義)な芸風に向かわせたこと,リズムを主とした曲舞(くせまい)の曲節を導入したことなどである。…

【馬具】より

…馬につける装具を総称して馬具という。ただし,一般に馬具というと騎馬の装具を指し,車馬具と区別して用いることがこれまで多かった。車馬具というのは,車の部品および馬の装具として用いられた青銅金具であって,中国の殷・周時代に王や諸侯の大墓に添えて葬られた車馬坑からともに出土し,また甲骨文には〈車馬〉の語が用いられ,周室の臣が天子に朝見して官職・車服を賜ったことを青銅器に刻んだ金文には,車とともに馬匹が記されているから,車馬具として一括することは十分に意味がある。…

【幕府】より

…しかしこれは征夷大将軍即幕府とする形式的な考え方であり,最近ではこれらよりやや早い時期に,それぞれの幕府の実質的な成立時期を求めるのが普通である。足利義満は1368年(正平23∥応安1)征夷大将軍に任ぜられ,78年(天授4∥永和4)右馬寮御監となり,83年(弘和3∥永徳3)久我氏にかわって源氏の長者となり,淳和・奨学両院別当となったが,以後歴代の将軍はこれらの地位を兼ねるのが慣例となり,徳川氏もこれにならった。室町時代には清和源氏の流が征夷大将軍となるという原則が定着した。…

【花御所】より

…1378年(天授4∥永和4)足利義満によって京都に造営された将軍邸。その敷地は,北は柳原通,南は北小路(現在の今出川通),東は烏丸通,西は室町通によって囲まれた南北2町,東西1町であった。…

【室町幕府】より

…この前後,寺社公家などの本所領に関する裁判権は朝廷から漸次幕府に移行し,検非違使庁が握っていた京都市中の刑事警察権は幕府侍所に移され,段銭(たんせん)などの臨時財産税も守護にその徴収権が付与されるなど,頼之の執政は幕府権力確立の上できわめて重大な役割と画期を有している。 3代将軍足利義満の親政が始まる南北朝末期は,細川,山名,土岐,大内らの有力守護を巧みな懐柔と挑発によって弾圧し,92年(元中9∥明徳3)には南朝の神器を接収して内乱を終息させ,将軍権力は比類ないまでに強化された。義満は従一位,内大臣,左大臣,准三后を歴任し,王朝の支配権をほとんど簒奪し,義満の意志による伝奏奉書を発給させて形式的にも公武両権力の頂点に立つ専制君主となり,1401年(応永8)の対明外交開始に当たって国書に〈日本国王〉と自署したのである(日明貿易)。…

【明徳の乱】より

…足利一門斯波氏の最大の支持勢力となった山名氏は,幕府の権勢者佐々木高氏(道誉)の勢力を山陰地方から払拭していっそう強大となり,乱当時の山名氏一族の守護国は先の5ヵ国に出雲,但馬,隠岐,山城,和泉,紀伊の6ヵ国を加えて11ヵ国になり,六分の一衆と称された。3代将軍足利義満は南朝勢力の圧服を背景に,将軍専制権力確立の手段として,直属軍事力の強化とともに,強大化した守護勢力の削減を意図していた。明徳の乱のほか土岐氏の乱(1390),応永の乱(1399),さらに東国における小山義政の乱(1380‐82)も,こうした幕府,将軍側の意図で挑発され惹起された事件である。…

【大和猿楽】より

…京における観阿弥,世阿弥の事績としては,1372‐74年(文中1‐3∥応安5‐7)ころの醍醐寺における7日間の勧進猿楽(勧進能),および同じ74年か75年(天授1∥永和1)の今熊野神社の猿楽が最も古く,いずれも観阿弥とともに子の世阿弥の芸が世人の注目を浴びたらしい。とりわけ今熊野神社での猿楽は将軍足利義満の初めての能見物で,観世座が将軍愛顧の座として発展していく契機となった。観世座の進出以前に京で活動していたのは摂津の榎並猿楽であるが,1424年(応永31)醍醐寺清滝宮の楽頭職(がくとうしき)も榎並から世阿弥の手に移っている。…

【鹿苑寺】より

…北山と号し,通称〈金閣寺〉で有名。現寺地辺には公家の西園寺家の山荘があったが,これを足利義満が譲り受けて,1397年(応永4)から北山殿(きたやまどの)の造営に着手し,翌年義満はここに移った。以後1408年の義満没年までの10年間,北山殿は室町幕府政治の中心となった。…

※「足利義満」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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