加藤景廉(読み)かとうかげかど

改訂新版 世界大百科事典 「加藤景廉」の意味・わかりやすい解説

加藤景廉 (かとうかげかど)
生没年:?-1221(承久3)

鎌倉前期の武士。景員の子。加藤次と称す。景員は伊勢国目代であったが,平氏との内紛により本領を去り,伊豆の狩野介茂光のもとに赴き,嘉応年中(1169-71)勅を奉じて伊豆に拠った源為朝を討った。景廉は1180年(治承4)8月の源頼朝の挙兵に従い,山木判官兼隆を討ち,その後石橋山の戦に敗れて甲斐にのがれた。源平戦では84年(元暦1)源範頼の軍に属して西海に平氏を討った。89年(文治5)の奥州征伐では阿津賀志山の戦に功をたて,遠江国浅羽荘地頭職を恩賞として与えられた。しかし1200年(正治2)梶原景時が討滅されたとき,景時と親しかった景廉は事件に連座し,浅羽荘地頭職を没収された。19年(承久1)将軍実朝の暗殺後,出家し覚蓮房妙法と称した。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤景廉」の意味・わかりやすい解説

加藤景廉
かとうかげかど
(1143/56―1221)

鎌倉前期の御家人(ごけにん)。景員(かげかず)の子。通称加藤次(かとうじ)。藤原利仁(としひと)あるいは能因(のういん)法師の後裔(こうえい)と伝えられる。もと伊勢(いせ)国(三重県)に住したが、父とともに伊豆国(静岡県東部)に移ったという。1180年(治承4)源頼朝(よりとも)の挙兵に際しては、初め頼朝の身辺警固にあたり、ついで山木兼隆(やまきかねたか)の首をとった。以後も数々の軍功をあげ、遠江(とおとうみ)国(静岡県西部)浅羽荘(あさばのしょう)地頭職(じとうしき)や美濃(みの)国(岐阜県南部)遠山(とおやま)荘を与えられたが、1200年(正治2)梶原景時(かじわらかげとき)の謀反に連座して、所領没収となった。19年(承久1)源実朝(さねとも)の死去により出家、覚蓮房妙法(かくれんぼうみょうほう)と号す。承久(じょうきゅう)3年8月3日没。

[杉橋隆夫]


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朝日日本歴史人物事典 「加藤景廉」の解説

加藤景廉

没年:承久3.8.3(1221.8.21)
生年:生年不詳
鎌倉初期の武将。加藤次と称す。大夫判官。景員の次男。父にしたがって伊勢を去り,伊豆の工藤氏のもとに身をよせる。治承4(1180)年源頼朝の挙兵に参加し,山木兼隆を討つ。石橋山の戦では敗れていったん甲斐に逃れたが,武田氏の軍に加わり駿河国を攻めて目代橘遠茂を討った。元暦1(1184)年から翌年にかけては源範頼に属して平家追討に参加,文治5(1189)年の奥州攻めでも戦功をあげている。正治2(1200)年,梶原景時が滅んだが,景時と親しかったため所領を没収される。承久1(1219)年,源実朝の死後出家,覚蓮房妙法と称した。承久の乱(1221)時は宿老として鎌倉にとどまり,まもなく病死。

(本郷和人)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤景廉」の解説

加藤景廉 かとう-かげかど

1156-1221 平安後期-鎌倉時代の武将。
保元(ほうげん)元年生まれ。加藤景員(かげかず)の次男。治承(じしょう)4年(1180)源頼朝の挙兵にくわわり,山木兼隆を討つ。のち源範頼にしたがって平氏追討に参加。奥州攻めにも戦功をたて,遠江(とおとうみ)(静岡県)浅羽荘(あさばのしょう)地頭職となるが,正治(しょうじ)2年梶原景時の謀反に連座して所領を没収された。承久(じょうきゅう)3年8月3日死去。66歳。通称は加藤次。

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世界大百科事典(旧版)内の加藤景廉の言及

【遠山氏】より

…美濃の中・近世の武家。加藤景廉が源頼朝より勲功賞として美濃遠山荘地頭職を与えられ,その子景朝が荘内岩村に拠って遠山を称したのに始まる。遠山荘はほぼ現在の岐阜県恵那郡全域,および木曾馬籠辺に及ぶ広大な荘園である。…

※「加藤景廉」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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