(田端泰子)
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室町中期の女性。8代将軍足利義政の室。政光(重政)の娘。1455年(康正1)義政に嫁ぎ,59年男子を得るが死産であった。ところが,義政の愛妾とも乳母ともいわれる今参局(いままいりのつぼね)が富子を呪詛したことが露顕したため,富子は義政を動かしてこれを殺害した。その後も男子なく,64年(寛正5)義政は弟浄土寺門主義尋(義視)を養子にしたが,翌年富子は懐妊,男子を出産した。これが義尚である。《応仁記》は富子が義尚の後見を山名持豊に依頼し,一方,細川勝元が義視の後見であったため両者の対立が激化したと説くが確証はない。ただ富子が義尚の将軍就任を望んだことは確実である。応仁・文明の乱では義政・義尚とともに東軍陣営にあり室町第に居住,76年(文明8)同第焼失後は小河常御所に移住する。乱の終結に尽力し西軍足利義視や大内政弘から多額の礼金を受け取る。兄勝光の死後,積極的に幕政に関与し特別重大な問題を除いて富子が裁断し,御内書も発した。78年幕府は内裏修理のため京都七口に関所を設けたが,修理は名目にすぎず富子の収入となったため80年土一揆が蜂起した。幕府は徳政禁制を発し一揆を鎮めたが,この発令者を富子と考える説もある。実際に富子の所領に近江国船木関があり,毎月60貫文の収入があった。また高利貸を営み収入は計り知れず,西軍畠山義就に1000貫文の軍用金を貸与した。82年義政が長谷御所に隠居したため幕府沙汰始を執行したが,まもなく義尚が幕政を担当し始め富子は政治から離れる。気性が激しく義政・義尚とたびたび不仲になった。89年(延徳1)義尚が近江出陣中に没し,翌年義政も死去すると,次期将軍の候補者に足利義視の子義材(義稙)と堀越公方足利政知の子清晃(義澄)があがったが,富子の推挙により前者が10代将軍となり義視が後見した。富子は小河御所を清晃に与えたが義視に破却され,富子の料所も差し押さえられた。
執筆者:鳥居 和之
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室町幕府8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)の室。日野重政(しげまさ)(政光(まさみつ)改め)の女(むすめ)。9代将軍義尚(よしひさ)の母。1455年(康正1)16歳で義政に嫁し2女を生んだが、男子を得られなかったので、義政は64年(寛正5)弟の浄土寺義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ義視(よしみ)と名のらせ後嗣(こうし)と決めた。ところが翌65年に富子は義尚を生み、彼を将軍継嗣にたてようとして兄の勝光(かつみつ)や伊勢貞親(いせさだちか)と結んで義視排斥を画策し、義視を支持する細川勝元(かつもと)と鋭く対立した。66年(文正1)伊勢貞親が義視排斥に失敗し近江(おうみ)(滋賀県)に去ったため、有力な支持者を失った日野兄妹は山名宗全(やまなそうぜん)に義尚の後見を頼むに至り、細川勝元と山名宗全の勢力争いに拍車をかけ、応仁(おうにん)の乱(1467~77)を引き起こす引き金となった。うち続く戦乱のなかで家督相続者となった義尚が73年(文明5)9歳で元服し将軍になると、富子は幕政に深く介入するようになり、ことに兄勝光の死後は権勢を一手に握り、彼女のもとに祝い物を届ける人々の列が1~2町にも及んだという。夫義政が現実政治から逃避し東山(ひがしやま)山荘で隠遁(いんとん)生活を送ったのとは対照的に、関所設置による課税や米の投機的売買、高利貸活動などによって利殖に努め、その富を背景に専横を極め、天下の料足(りょうそく)(貨幣)はみな富子のもとに集まるとさえいわれるほどであった。1478年に幕府は内裏(だいり)修理料の名目で京都七口(ななくち)関を置き関銭を徴収した。これはすべて富子の着服するところであったが、これらの関は80年の土一揆(つちいっき)によりことごとく破られる。義政との疎遠に加え83年には子義尚とも不和になり、以後富子は急速に権勢を失う。89年(延徳1)義尚が近江の六角(ろっかく)討伐の陣中で病いに倒れ、25歳で世を去り、翌年には義政とも死に別れ、尼となった富子の晩年は室町幕府の衰退とともにあった。将軍には義視の子義材(よしき)(のち義稙(よしたね))が就いたが、実権は細川政元(まさもと)の掌握するところとなり、富子も政元の支持によって勢力を保っていたにすぎない。明応(めいおう)5年5月20日、57歳で没した。妙善院と号す。京都の宝鏡寺に富子の木像がある。
[酒井紀美]
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1440~96.5.20
室町幕府の8代将軍足利義政の室。9代将軍義尚(よしひさ)の母。日野政光の女。1455年(康正元)義政の生母日野重子の意向で義政に嫁す。はじめ義政に男子がなく,64年(寛正5)弟義視(よしみ)を継嗣としたが,翌年富子が義尚をうみ,両者をめぐる対立が応仁・文明の乱の一因となった。乱中,義視が西軍に出奔したため73年(文明5)義尚が将軍となる。以後数年間,兄勝光と執政にあたり,89年(延徳元)義尚死後,妹の子義材(よしき)(義稙(よしたね))を継嗣に定めた。翌年義政の死後出家して妙善院慶山と称す。のち義材との関係は悪化,93年(明応2)細川政元の清晃(義澄)擁立を支持し,清晃を義政猶子(ゆうし)分として継嗣にたてた。富子の行使した将軍家重事の決定権は,御台あるいは後家の尼たる地位に由来し,中世の女性として例外的なものではない。
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…1451年(宝徳3)尾張国守護代を更迭せんとし,義政の生母裏松重子と対立する。59年義政夫人日野富子が男子を死産するが,今参の富子呪詛の事実が露顕,近江国沖ノ島配流の途中自殺した。【鳥居 和之】。…
…将軍足利義政は,最初男子に恵まれなかったために,64年(寛正5)に弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ,義視と名のらせて正式に義政の後継者とした。ところが,その翌年に正妻日野富子との間に,男子の出生を見た。のちの義尚である。…
…80年9月には七口の関所存置が誘因となって山城土一揆が再発,連日酒屋土倉を襲い,10月には実力で七口の関所を打ち破った。このときの関所設立目的は将軍足利義政夫人日野富子の収益のためであった(《大乗院寺社雑事記》)。その後81年,85年,1509年(永正6)と3回にわたって新関を設けるが,その廃止をめぐってしばしば血なまぐさい一揆が起こり,一時的には廃止に成功してもまもなく旧に戻るのが通例であった。…
…藤原氏北家の流れ。右大臣内麻呂の息男真夏から出て,その孫家宗が山城国宇治郡日野の地に法界寺を創建し,家宗の5世の孫藤原資業(すけなり)が法界寺の薬師堂を建立し,それより日野氏を称した。公家としての家格は弁官を経て中・大納言に至る名家で,代々儒道および歌道をもって朝廷に仕えた。南北朝時代には俊光,資名,資朝が活躍し,室町時代には時光の女業子と孫女康子(北山院)が将軍足利義満の室となってから,9代義尚まで日野家の女が将軍の室となったために勢力を張り,時光の子資康および資康の子重光は従一位権大納言に進んだ。…
※「日野富子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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