出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
平安時代に設けられた藤原氏出身の学生のための教育施設。821年(弘仁12)に,右大臣藤原冬嗣が一族子弟の大学生のための寄宿舎として建てたもので,やがて大学寮の付属施設として公認され,大学別曹となった。左京三条一坊にあり,大学寮の南に当たるので南曹とも称し,また氏院(うじのいん)ともいわれた。藤原氏出身の大学生は勧学院で宿舎・学資・書物などの便宜を与えられ,大学に通って勉学したのである。勧学院は藤原氏の勢力に支えられて諸氏の類似の施設である大学別曹の中で抜群の隆盛を誇り,興福寺・春日神社などの氏寺・氏社関係の事務をも管掌した。その維持管理は藤原氏の氏長者(うじのちようじや)がこれに当たり,政所(まんどころ)が置かれ,別当・知院事・案主(あんず)などの職員があり,学生代表ともいうべき学頭もいた。別当はすべて藤原氏の者で,大納言が務める公卿別当や,弁官の中から出る弁別当,六位の者が当たる六位別当などがあり,六位別当には諸司判官などの官職を持つ有官(うかん)別当と,官職を持たない無官別当があった。学生は入院名簿を出して勧学院に入るが,盛時にはその数も多数にのぼったと思われ,元服前の幼少の小学生もいた。成績優秀な者には勧学院学問料が支給されるが,これは文章得業生に昇進する有力な資格であり,また毎年1人が諸国の掾(じよう)に任官する年挙(ねんこ)という特権も勧学院に与えられていた。これらの学生からは多数の学者や官人が出て藤原氏の勢力発展を助けた。また藤原氏から摂関大臣が出たり,氏の女性の立后などの慶事があると,勧学院の職員や学生代表がその邸に祝賀のために参入する勧学院歩(かんがくいんのあゆみ)という行事もあり,天皇元服に際して同時に勧学院小学生も元服させてこれを宮中に引見するという特別な待遇を受けることもあった。
勧学院の経済は,最初冬嗣が自分の封戸1000戸を割いて寄付し,以後藤原氏出身の大臣は封戸若干を寄付する例となったが,封戸の制度がしだいに行われなくなると,諸国の荘園が有力な財源となったと思われる。勧学院領の荘園については明らかではないが,大和・伊勢・近江・紀伊などをはじめ,東は遠江・信濃,西は播磨・伯耆・周防などの諸国で合計約20ほどの荘園の名が各種史料に散見しており,このほかにもなお多くの荘園があったであろう。勧学院はまた氏寺・氏社に関する事務をもつかさどり,法会・祭祀の執行や,社寺の建物・宝物の管理に深くかかわった。そのほか,寺僧・神人の不法について身柄を拘束して裁断し,寺社領に関する訴訟を扱い,強訴(ごうそ)などの騒動の調停に当たるなど,すべて氏長者の指揮の下に活動した。この勧学院も平安末期からしだいに衰えを見せ,鎌倉時代末には有名無実となったらしい。なお中世以降には,高野山,園城寺,東寺,東大寺,興福寺以下の諸寺に学僧養成の学問所が設けられたが,これらは勧学院と称するものが少なくなかった。
執筆者:土田 直鎮
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平安時代、藤原氏のための大学別曹(べっそう)。藤原冬嗣(ふゆつぐ)が821年(弘仁12)大学寮の南方、弘文(こうぶん)院の南、左京三条一坊に創設。南曹とも氏院(うじのいん)ともいわれた。藤原氏出身の学生(がくしょう)を寄宿させ、学資を与え、学問を励ますためのもので、学生は曹司(ぞうし)に起居して、大学に学び、課試を受けた。当初、冬嗣が食封(じきふ)1000戸を寄付して維持費にあて、その後、藤原氏出身の大臣らが食封を寄進したりしたが、寄進荘園(しょうえん)をその財源とすることになる。大学寮の管轄を受けず、藤原氏の氏長者(うじのちょうじゃ)が所管した。別当、学頭、知院事(ちいんじ)、案主(あんじゅ)などの職員があり、別当が学生の出世に尽力したので、学生には有利な条件が多くあった。のちに藤原氏の氏寺、氏社の事務をも取り扱うようになり、氏長者の事務を行う政所(まんどころ)も置かれるようになる。藤原氏の政治勢力によって、諸氏大学別曹のなかでもっとも栄えたが、鎌倉時代には衰えた。しかし、機構は室町時代まで続いた。
[大塚徳郎]
『桃裕行著『上代学制の研究』(1947・目黒書店)』
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藤原氏の氏院(うじのいん)。821年(弘仁12)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が藤原氏の学生(がくしょう)のために創立した。大学別曹として公認された時期は不明だが,その下限は872年(貞観14)。所在は平安京左京3条1坊5町で,大学寮の南にあったため南曹(なんそう)ともよばれた。学生は勧学院に寄宿し,大学に登校して授業をうけ,各種の任官試験や,年挙(ねんきょ)によって官界に入った。財源は藤原氏一門から寄付された封戸(ふこ)・荘園などである。藤原氏の学生の支援だけでなく,春日・大原野・吉田・鹿島・香取社,興福寺のような氏社・氏寺の事務を担当する氏院としての機能もしだいに拡大した。職員には公卿別当・弁別当(別当弁・南曹弁・氏院弁とも)・六位別当(有官別当・無官別当)・知院事(ちいんじ)・案主(あんじゅ)などがあり,その上に氏長者(うじのちょうじゃ)をいただいた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…大師をまつる唐院は1599年に大師堂,灌頂堂などが完成している。これに接する勧学院は一山の学頭の役宅で,北政所が毛利輝元を奉行として1600年に復興した。3列8室の大型の客殿(国宝)があり,南面車寄は軒唐破風(からはふ)を設け,これに続けて横連子(れんじ)窓や両折戸をもつ中門を突き出している。…
…大学寮の南に近接して設けられたものは,大学寮南曹とも呼ばれた。大学別曹には,和気氏の弘文院,藤原氏の勧学院,橘氏の学館院,源氏など王氏の奨学院がある。別当,知院事などの職員が置かれ,いずれも各氏族の財源によって運営された。…
…藤氏長者は平安中期以降,摂政ないし関白がこれを兼ねる。また藤原氏の子弟教育の施設として勧学院があり,勧学院は氏寺・氏社のことも管轄した。したがって氏寺・氏社に関する氏長者の命は,勧学院政所下文をもって下すのが例であったが,のち補任等については宣旨形式の藤氏長者宣,その他については奉書形式の藤氏長者宣を用いるようになった。…
※「勧学院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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