改訂新版 世界大百科事典 「安田義定」の意味・わかりやすい解説
安田義定 (やすだよしさだ)
生没年:1134-94(長承3-建久5)
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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(三田武繁)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安末~鎌倉初期の武将。清和源氏の一流である甲斐源氏の一族。1180年(治承4)源頼朝に呼応して挙兵し、一族の武田信義らとともに駿河に進出。富士川の合戦で平氏を敗走させ、遠江守護となった。その後、源義仲追討、一ノ谷の戦い、奥州合戦に従軍するなど、頼朝軍の有力武将の一人として活躍した。しかし1193年(建久4)子息義資(よしすけ)の艶書事件(義資が鎌倉永福寺(ようふくじ)薬師堂供養の際、参列していた女性に艶書を送ったことを梶原景時(かじわらかげとき)に讒言され梟首された)に縁座して所領を没収され、さらに翌年反逆を企てたとして討伐された。
[山本博也]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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【中世】
甲斐源氏勃興のときは源平争乱期であった。1180年(治承4)信義は以仁王(もちひとおう)の令旨(りようじ)を奉じ,その子一条忠頼,弟安田義定ら一族を率いて挙兵し,富士川の戦で奇襲戦法によって平維盛の軍を敗走させ,その功で信義は駿河守護,義定は遠江守護に補任された。その後源頼朝の政権が強化されるにともない,甲斐源氏の地位は相対的に低下するが,木曾義仲追討,平家討滅等に転戦し,鎌倉幕府の創業に貢献した。…
…平安時代の荘園として,関白藤原頼通領笠原荘,円勝寺領質侶(しどろ)荘などのほか,蒲御厨(かばのみくりや)をはじめとする伊勢神宮領が国内に多数置かれた点に特色がある。【原 秀三郎】
【中世】
[鎌倉~室町期]
源頼朝は1180年(治承4)8月に伊豆で挙兵し,10月には富士川の戦で平氏軍を破り,遠江守護に安田義定を補任して,みずからは鎌倉に入った。しかし93年(建久4)義定は子義資の罪に縁坐して守護職を解かれた。…
※「安田義定」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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