朝日日本歴史人物事典 「海野幸氏」の解説
海野幸氏
鎌倉前期の武士。幸広の子。小太郎幸氏と名乗る。はじめ木曾義仲の家人であったが,源頼朝の許に人質として遣わされた義仲の子義高に同行し,以来鎌倉で活躍。元暦1(1184)年,義仲の敗死後,鎌倉から逃亡しようとした義高の身代わりを勤めた。義高死後は頼朝に仕え,鶴岡神事の流鏑馬や正月の的始等の射手を何度も勤め,弓の名手としてその名を知られた。嘉禎3(1237)年7月,初めて鶴岡放生会流鏑馬射手を勤めることになった北条時頼に,流鏑馬・笠懸等の故実を伝えた。建長2(1250)年,閑院殿造営の一部を負担した海野左衛門入道も幸氏と思われ,かなり長命であったことがわかる。
(澤野泉)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報