鎌倉中期の執権。父は北条時氏,母は安達(あだち)景盛女(松下禅尼)。幼名戒寿。1230年(寛喜2)時氏が死去して祖父泰時に養育され,37年(嘉禎3)元服,43年(寛元1)左近将監従五位下。46年閏4月の兄経時の死没にさきだち3月23日執権となった。その直後,一族の名越光時を誅し,将軍藤原頼経を追放(宮騒動),47年(宝治1)には安達景盛と計って三浦泰村一族を滅ぼした(宝治合戦)。49年(建長1)引付衆(ひきつけしゆう)を設けて訴訟制度を改革し,52年には将軍藤原頼嗣を追放して後嵯峨天皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え,西園寺実氏を太政大臣につけるなど,執権政治と北条氏の権威の増大を計った。その政治は術策にとみ独裁的であったが,大番役(おおばんやく)の6ヵ月から3ヵ月への短縮,地頭の一方的在地支配の抑制など土民保護の姿勢から,のち諸国の民政を視察したという回国伝説が生じた。深く禅に帰依し,宋から来朝した蘭渓道隆を鎌倉に迎え,建長寺を建てて開山としたほか,兀庵普寧(ごつたんふねい)にも参禅した。そのほか弁円,忍性,叡尊などとも接触があった。56年(康元1)病気となり,11月22日執権職を退き,翌日最明寺(さいみようじ)で出家した。戒師は道隆,法号は覚了房道崇。しかし出家後もなお政治を左右し,63年9月22日最明寺北亭で没した。墓所は鎌倉の明月院。
執筆者:工藤 敬一
政治家として高い評価が与えられたため,出家後諸国を行脚して民情を視察したとの伝説が生まれた。当時全国を遊行していた時衆(じしゆう)がその伝説を語りひろめたようである。いま滋賀県守山市勝部にある時宗の最明寺は鎌倉山と号し,北条時頼開基という寺伝がある。千葉県御宿(おんじゆく)町にも最明寺があり,時頼が足をとどめたので御宿の名があるという。《越中志徴》巻二の礪(砺)波郡西明寺村,《淡路名所図会》巻一の西明寺村,《下野国誌》芳賀郡益子郷西明寺,《新編相模国風土記稿》足柄上郡金子村最明寺,《蓮門精舎旧詞》巻二十五の信濃更級郡真島村最明寺,《越前国名蹟考》巻四の今立郡水海の最明寺堂など,いずれも時衆や遊行者の語りひろめた伝説の痕跡である。《増鏡》《太平記》に最明寺入道時頼の回国伝説がみえるが,謡曲《鉢木》は特に名高い。旅僧に姿をやつした時頼が上野の国佐野で大雪に道を失い,佐野源左衛門常世の零落した家に泊めてもらう。常世は秘蔵の鉢の木をたいてもてなした。後年鎌倉に軍勢を集めた時頼は,はせ参じた常世の所領を復活し,雪の夜の鉢の木の礼に三ヵ所の土地を与えるというのである。
執筆者:金井 清光
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(新田英治)
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鎌倉幕府第5代執権。時氏(ときうじ)の二男、母は安達景盛(あだちかげもり)の女(むすめ)松下禅尼(まつしたぜんに)。幼名を戒寿といい、北条五郎と称した。左兵衛尉(さひょうえのじょう)、左近将監(さこんのしょうげん)、相模守(さがみのかみ)を歴任する。法名道崇(どうすう)。1237年(嘉禎3)元服し、将軍九条頼経(くじょうよりつね)によって時頼と名づけられる。46年(寛元4)病の兄経時(つねとき)から執権職を譲られた。時の将軍は8歳の頼嗣(よりつぐ)であったが、在位25年の前将軍頼経の周りに、幕府の実権を握ろうとする北条一族、御家人(ごけにん)らが集まっていた。時頼は、名越光時(なごしみつとき)が三浦氏らと通じて執権職をうかがった陰謀を打ち破り、光時を出家させて伊豆に流し、頼経を京都へ送還した。翌47年(宝治1)外戚(がいせき)安達(あだち)氏の後援を得て、謀略によって豪族三浦氏を滅ぼした。ここに幕府内における北条氏の独占的地位が確立した。ついで空席であった連署(れんしょ)に北条重時(しげとき)を迎え、時頼指導下の執権政治の安定をみた。49年(建長1)相模守となり、同年、判決の公正と審理の迅速を図るため引付(ひきつけ)制度を新設した。52年京都の九条家と将軍頼嗣とがかかわる陰謀が発覚、頼嗣を辞任させ京都へ送り、かわりに後嵯峨(ごさが)上皇の皇子宗尊(むねたか)親王を将軍に迎え、幕府念願の皇族将軍が実現した。56年(康元1)病により家督を6歳の時宗(ときむね)に譲り最明(さいみょう)寺で出家した。執権には一族の長時(ながとき)がなったが、鎌倉の北方山内庄(やまのうちしょう)の別邸に隠居した時頼は、なお幕府政治の実権を握り続けた。執権政治から得宗(とくそう)(北条嫡流)政治への移行であった。弘長(こうちょう)3年11月22日死去した。禅に帰依(きえ)し、宋(そう)僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山に建長(けんちょう)寺を建立した。仁政の美談と諸国遍歴の伝説をもつ優れた政治家であった。
[田辺久子]
『岡部長章著『北条時頼』(1954・朝日新聞社)』
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1227.5.14~63.11.22
鎌倉中期の幕府執権。父は時氏,母は安達景盛の女(松下禅尼)。五郎と称する。1246年(寛元4)兄経時より執権の地位を譲られる。同年名越(なごえ)光時,前将軍藤原頼経らの反対派を一掃。47年(宝治元)有力御家人の三浦氏を滅ぼした。この間,寄合(よりあい)という私的な会議を開き,重要事項を決定するなど,北条氏による専制を推し進めた。49年(建長元)土地関係の訴訟を審議する引付(ひきつけ)を評定の下に設置。56年(康元元)執権を退き出家して最明寺入道と称したが,実権を握り続けた。諸国を回って弱者の救済を図ったとの伝説がある。
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…土御門上皇が承久の乱の際,討幕に賛成でなかったためである。46年執権となった北条時頼は,執権(得宗)への権力集中をはかった。陰謀のゆえに一門の名越光時を流し,前将軍九条頼経を京都に追放した。…
…12世紀末源頼朝が鎌倉に開き,1333年(元弘3)まで続いた武家政権。
[政治過程]
平治の乱の結果,1160年(永暦1)以来平氏によって伊豆に流されていた頼朝は,80年(治承4)8月以仁王の命に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模の鎌倉を本拠と定め,御家人統率のために侍所を設け,遠江以東の〈東国〉に対する経営を進めた。新邸を造営した頼朝はこの年12月,御家人たちの参集するなかで新邸に移り住む儀式を盛大に行ったが,これは新政権成立の宣言を意味するものであった。…
…西蜀(四川省)に生まれ,出家して癡絶道冲(ちぜつどうちゆう)に参禅,ついで無準師範(ぶしゆんしはん)の法をつぎ,無準門下の四哲の一人となった。北条時頼や同門の円爾(えんに)弁円らは,兀庵の名声を聞いてしきりに招請したが,時あたかも宋朝が元の侵入によって混乱していたので,兀庵は新天地を求め1260年(文応1)渡来し,崇福寺,東福寺に留錫ののち,鎌倉に下って建長寺に住した。時頼は兀庵に参禅し,ついに大悟徹底し,印可を受けたが,時頼没後禅を解するものがいないとして,在留6年にして帰国した。…
…謡曲《鉢木》の主人公として名高い。鎌倉幕府の執権北条時頼が出家して最明寺入道となり,旅僧に身をやつして諸国行脚の途中,上野佐野で大雪に遭い,貧家に一夜の宿を借りた。その家のあるじ佐野源左衛門常世はたいせつな鉢の木をいろりにくべて旅僧をもてなしたので,時頼は後日その忠義を賞して彼の領地を復活し,鉢の木に縁のある3ヵ庄を与えた。…
…鎌倉時代,北条氏が執権の地位によって,幕府の実権を掌握した政治体制。鎌倉幕府の歴史は,その政治形態によって,前期の鎌倉殿(将軍)独裁政治,中期の執権政治,後期の得宗専制政治の3期に区分される。中期の執権政治の特色として,第1に鎌倉殿に代わって執権北条氏が政権を握っていること,第2にその政治の性格は,その前後の時期の独裁・専制とは異なり合議政治であることがあげられる。これらの条件を考慮して,鎌倉殿独裁政治から執権政治への画期を求めると,第1の条件からは1203年(建仁3),第2の条件を満たすならば25年(嘉禄1)ということになり,これらをそれぞれ執権政治の成立・確立の時点と見る。…
…鎌倉将軍藤原頼経は在職が長期にわたるにつれ御家人との結びつきが深まってその権勢が強まり,執権の権勢が不安定になることを北条氏に警戒されて更迭されたが,その後も鎌倉にとどまって〈大殿〉と称され,前将軍として勢力を保持していた。1246年(寛元4)北条氏の支流名越光時は,千葉秀胤らを誘い,頼経を擁して北条時頼を除き執権の地位を奪おうと図ったが,事前に発覚して追放され,頼経は京都に送還された。三浦光村も頼経に接近してこの事件に関係したらしく,頼経を京都まで護送したのち,再び頼経を鎌倉に迎える考えをもっていたといわれる。…
※「北条時頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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