日本歴史地名大系 「淡路庄」の解説
淡路庄
あわじのしよう
東淀川区の北西部淡路付近にあった庄園。もと関白藤原師通の室、一条殿全子の所領であったが、天養二年(一一四五)一〇月頃、全子から孫の内大臣藤原頼長に譲られた。しかし、その譲与にあたり、全子は頼長に対し、当庄は年来摂津国司によって停廃されようとしているので、きちんと国司の庁宣をえて領知するようにとのべており、頼長もそれにしたがっている(「台記」同年一〇月二日条)。久安四年(一一四八)八月、頼長は自分の家領二四ヵ所にたいし、輪番で、父の忠実およびその室師子に、毎月魚・菜・果実の美物を求めて献進するよう命じたが(「台記」同月二四日条)、当然、そのなかに当庄も含まれていたであろう。その後、頼長は保元の乱で敗死し、保元二年(一一五七)三月二五日、彼の個人的な所領二九ヵ所が没官され後院領となったが(「兵範記」同月二九日条)、なぜかその没官分のなかに当庄はみえず、その理由は明らかでない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報