深作村(読み)ふかさくむら

日本歴史地名大系 「深作村」の解説

深作村
ふかさくむら

[現在地名]大宮市深作・春野はるの卸町おろしまち

まるさき村の南に位置する。東半は綾瀬川の沖積低地、西半は洪積台地からなり、台地面を開削するように見沼代用水(東縁)南東流する。綾瀬川の西、村の南東端に鶴巻つるまき沼がある。東は同川を挟んで埼玉郡平林寺へいりんじ村・岩槻町(現岩槻市)。天正二〇年(一五九二)二月森川久右衛門(重成)は深作郷で三〇〇石を、森川清八(重次)は同郷で二〇〇石をそれぞれ徳川氏から宛行われている(記録御用所本古文書)。田園簿では田七五九石余・畑三四七石余、幕府領・岩槻藩領および森川(二氏)領の四給。のち岩槻藩領と森川(一氏)領は上知されたが、宝永三年(一七〇六)旗本松平氏が、同四年には旗本大沢氏が当村内で知行地を与えられたと考えられ(寛政重修諸家譜)、以後幕府領と旗本三氏の四給で幕末に至る(寛政八年「足立郡村々高辻帳」都築家文書、改革組合取調書など)


深作村
ふかさくむら

[現在地名]南那須町大里おおさと

蛇行するあら川右岸に位置し、対岸北は高瀬たかせ村、東は小塙こばな村。古墳時代終末期の鴨毛かもげ横穴群がある。慶長五年(一六〇〇)旗本大田原領となり、幕末に至る。慶安郷帳では田高一九石余・畑高八石余、天保郷帳では高一五〇石余。改革組合村では家数一〇。享保年間(一七一六―三六)には奥州街道白沢しらさわ宿(現河内郡河内町)助郷を勤めている(「白沢宿御用留」宇加地太美雄文書)。明治九年(一八七六)拾壱人前じゆういちにんまえ村と合併、大里村となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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