大里村(読み)おおさとむら

日本歴史地名大系 「大里村」の解説

大里村
おおさとむら

面積:一五・五八平方キロ

埼玉県の北部中央、南東流する荒川中流右岸の扇状地扇端部からその氾濫原(沖積低地)に位置する。村域西端部から中央部南寄りを和田吉野わだよしの川が、北部中央をその支流通殿づうどの川が流れる。明治二九年(一八九六)成立時の大里郡の南東端に位置し、現在北から西は熊谷市、南は東松山市・比企郡吉見よしみ町、東は北足立郡吹上ふきあげ町に接し、村域南端部の玉作たまつくり小八林こやつばやしの境に吉見町中曾根なかぞねの細長い飛地がある。北西端部および南端の冑山かぶとやまをかすめる国道四〇七号は旧熊谷往還、小八林を通る主要地方道行田―東松山線は旧日光脇往還にほぼ重なる。なお「風土記稿」の中恩田なかおんだ村の項によると、平塚ひらつか新田(現熊谷市)からの吉野川と和田村(現同上)からの和田川の二流は下恩田村付近で合流、そのため和田吉野川と称されたとあるが、現在は旧吉野川も和田吉野川といわれる。旧石器時代の遺物としては、南部の桜谷東さくらやつひがし遺跡からナイフ形石器、東山ひがしやま遺跡からナイフ形石器と細石器が出土。桜谷遺跡からは縄文時代早期の沈線文系土器の破片が出土しているが、本格的な集落が営まれたのは前期に入ってからである。冑山遺跡では黒浜式土器、北廓きたくるわ遺跡(玉太岡遺跡)では諸磯式土器を伴う竪穴住居跡が発掘されている。中期の遺跡は東山遺跡・桜谷東遺跡など九ヵ所が確認されており、東山遺跡からは中期後半の土器を伴う竪穴住居跡一一や土壙などが発掘されている。


大里村
だいりむら

[現在地名]門司区大里本町だいりほんまち一―三丁目・中町なかまち大里新町だいりしんまち松原まつばら一―三丁目・うめ木町きちよう大里東口だいりひがしぐち黄金町こがねまち大里元町だいりもとまち大里東だいりひがし一―五丁目・永黒ながぐろ一丁目・寺内じない五丁目・松崎町まつざきちよう不老町ふろうちよう一―二丁目・小松町こまつちよう高田たかだ一―二丁目・大里桃山町だいりももやままちいずみおか大里桜だいりさくらおか大里原町だいりはらまち桃山台ももやまだい青葉台あおばだい光町ひかりまち一―二丁目・大里など

小森江こもりえ村の南に位置し、西部は瀬戸に臨む。浜方を長崎街道が通る。中世よりみえ、もとは内裏・内裡・大裏・大裡と記していたが、延享元年(一七四四)「宇佐香椎宮奉幣使」下向の際、京都所司代牧野貞通より小倉藩に内裏村という表記について「字面尋」があったため、小倉藩の命により大里村と表記を変更したという(「浄国公年譜草稿」寛政七年条、県史資料八)。村内は町方と村方に分れていたが、大里浦・大里湊・大里湊口とも称された。元和八年人畜改帳に「大裏町両新町共」とみえ、高一八七石余、家数一二七、人数三六七(うち百姓一三・加子役仕者一〇・川口番三・坊主三・屋根葺五・笊かたげ商人二〇・名子三七)、御茶屋一、牛一五・馬一三で牛屋・馬屋一七。


大里村
おおざとむら

[現在地名]市来町大里

みなと村から重信しげのぶ川を挟んで南に位置する。大里川が中央部を北西に流れ重信川に合流する。出水いずみ筋が通る。建武四年(一三三七)秋の市来城(現東市来町)をめぐる南朝・北朝両軍の攻防のなかで八月一〇日、当地の石走いしばしりで延時忠能と市来時家の軍が戦った(同年八月日「延時法仏軍忠状」延時文書)。一六世紀初めの河上家政の所領一町七反のうちに浮免として「一反大里名 甑町」がみえる(年未詳一二月二七日「薩摩国市来院坪付」河上文書)。現在、下甑しもこしき町の地名が残る。永禄一三年(一五七〇)一月一一日、島津義久は当地の水月すいげつ寺など三寺を広済こうさい(現伊集院町)に寄進している(「島津義久公帖」旧記雑録)。天正一五年(一五八七)六月、市来地頭職に補せられた新納長住は新恩の地として市来大里村北山きたやま門などを宛行われた(「新納旅庵譜」同書)。文禄二年(一五九三)二月七日の長谷場越前守の薩州隈城之内領知目録(同書)には市来大里名一段、来迎らいごう寺先柳田とみえる。


大里村
おおざとそん

面積:一二・三五平方キロ

沖縄島南部の東側に位置する。北は与那原よなばる町、東は佐敷さしき町、南は玉城たまぐすく村・具志頭ぐしかみ村、西は東風平こちんだ町・南風原はえばる町と接し、海に面しない。地形は東側の大里おおざとグスク(三角点の標高一五五・一メートル)から大城うーぐしくグスク(同一四七・二メートル)にかけて石灰岩丘陵が連なり、そこから中央部にかけて起伏を伴う島尻台地特有の泥岩土壌となり、西側は平坦地となっている。村の北東部の大里グスクの麓に源を発し、村の中央を横切って南風原町・豊見城とみぐすく市と流れる饒波のは川や、南部から東風平町・糸満市と流れ、東シナ海に出る報得むくえ川、大城おおしろダムから玉城村を経て具志頭村との境を流れ、太平洋に出る雄樋ゆーひ川、そして宮平みやひら川・手登根てどこん川・長堂ながどう川が当村に源を発している。


大里村
うーざとうむら

[現在地名]糸満市大里おおざと

高嶺たかんみ間切の中央に位置し、西は兼城かにぐすく間切照屋ていーら村、北は同間切座波ざーふあ村。ウーザトゥ村とよぶ。絵図郷村帳琉球国高究帳には島尻大里しまじりうーざとう間切に屋古やく村、「琉球国由来記」には高嶺間切屋古村とみえる。「おもろさうし」巻一三の一三七に「一 このたけ このみちよの(この嶽 この御処の)/つかさこ おやまて(司子〔神女〕を敬って)/しられてす はりよれ(神の加護を受けて 走りおれ〔ば〕)/ふたまたの中へ あやのてに(二股の中辺 綾の天)/又 おくとう いちへて(奥渡に出て)/おくとう いちへて はりゑは(奥渡に出て 走りおると)/たるかてゝ すれかてゝ とうな(誰かといって 何者かといって 問うな)/又 やことまり とまりはちへ(屋古泊へ 泊へ走って)/たるかてゝ すれかてゝ とうな(誰かといって 何者かといって 問うな)」とみえる。歌中の「ふたまた」は久米島が遠くからみると二つの島にみえることから、同島とするのが一般だが、古く糸満いちまんは岬の突端部分に位置し、その両側は屋古と兼城かにぐすく辺りまで湾入していたので、屋古にも湊があり、現大里の二股たまたーグスクを「ふたまた」にあてる説がある。


大里村
おおざとむら

[現在地名]伊万里市二里町にりちよう大里甲・同乙

西は烏帽子えぼし(五九七メートル)の北東斜面、東はこし(四八八メートル)の北西斜面、その中央を北流する有田川が伊万里湾に注ぎ、満潮時には川口から二キロ上流まで感潮する。慶長絵図に村名がみえる。

現大里甲は有田川より東部で川東かわひがし、西部は大里乙で大里と福母ふくもからなる。この福母の平町ひらまち中口なかぐち森町もりまち橋本はしのもと一本黒木いつぽんくろき二本黒木にほんくろきの六つの小字名がすでに消滅。土地改良が昭和四二年(一九六七)実施され合筆して従来からあった大緑おおみどりが大きくなった。


大里村
おおさとむら

[現在地名]東海市大田おおた

伊勢湾の東、知多半島北部の砂堆地帯に南北に走る西浦にしうら街道に沿って発達。村の中央を東南から西北へ大里川(現大田川)が流れる。北は加家かけ村、南は横須賀よこすか村と接する。正安二年(一三〇〇)の熱田社領大郷早田検見注進状案(猿投神社本「本朝文粋」巻二紙背文書)に「大郷郷」田畑三三町八段余とある。初めはこの付近一帯の総称であった。「寛文覚書」によれば、概高一千六一一石余、田五七町八反八畝余・畑三七町五反余、家数一七三、人数一千一五。


大里村
おおさとむら

[現在地名]鹿角市八幡平はちまんたい 大里

南北に二分される鹿角盆地の南側盆地の北付根付近、小豆沢あずきざわ村の北西に位置する。鹿角街道が集落を縦断、東へ歌内うたない沢沿いにみや嶽に延びる山道がある。縄文土器片を出土する大里遺跡・鳥井平とりいだいら遺跡がある。

建武四年(一三三七)八月二三日付の曾我貞光申状(南部文書)に「鹿角郡国代成田小二郎左衛門尉為対治御発向之時 親類曾我弥三郎光俊為代官馳向 大里楯致軍忠候了」とあり、大里の文字がみえる。また暦応二年(一三三九)九月の成田基員所領譲状案(八坂神社文書)に「陸奥国かづのこほり東根内大里太郎四郎在家、田山入道給分在家壱宇田山郷事」とみえる。


大里村
おおざとむら

[現在地名]紀宝町大里

井内いない村の南、相野谷おのだに川と支流相野川との合流地点にある。慶長六年(一六〇一)一二月六日付の和歌山藩から三方社人中への寄進状(熊野速玉大社古文書古記録)に「大里村之内百拾七石弐斗」と記されている。「紀伊続風土記」に「小名東と西とに分れ、人家最も多し、故に大里の名あり、大野川当村より下小舟の通ひあり」とある。新宮領で相野谷組に属する。


大里村
おおざとむら

[現在地名]海南町大里

浅川あさかわ浦の南に位置し、南部を東流する海部川が当地の南端で海に注ぐ。浜方に松原まつばら、その北東に五反田ごたんだ、その北東に網代あじろ崎がある。地内の浜崎はまさきで総枚数七万八八枚の銭貨が出土しており、銭種八一種のうち最古銭は貨泉、最新銭は至大通宝であるが、主体は九割近い北宋銭であり、ほかに唐銭・南宋銭などとなっている。これらを埋納していた陶器は備前系の大甕(器高約六九センチ、体部の最大径六〇センチ)で、一四世紀代のものとされることから、埋納時期も一四世紀中期から後期と推定されている。海に向かって行われた祭祀に関連した埋納とみる指摘もある。


大里村
うふざとうむら

[現在地名]沖縄市大里おおざと一―二丁目・大里・照屋てるや三丁目・同五丁目・高原たかはら一―三丁目・宮里みやざと三丁目

桃原とーばる村南の沖積低地にあり、ウフザトゥとよばれる。大里・桃原と併称され、美里んざとう間切に属する。絵図郷村帳や琉球国高究帳に大里村とある。集落の西側上方にはタキウガン・殿・ウフガーなどの拝所が集中するエーヤマという元島がある。一帯はグスク時代の後半から近世にまたがる遺跡となっており(大里エーヤマ遺跡)、集落の発生はグスク時代の後半までさかのぼると思われる。琉球国高究帳によれば高頭四九二石余、うち田二六二石余で、そのうち七七石余は永代荒地、畠二三〇石余。


大里村
おおさとむら

[現在地名]南濃町太田おおた

安江やすえ村の南東、揖斐いび川右岸にあり伊勢東街道が通る。慶長郷帳に村名がみえ、高三四五石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では徳永昌重(高須藩)領。正保郷帳では大垣藩領で、田二三八石余・畑一九二石余、山年貢二石余、ほかに新開地として田四八八石余・畑一二石余があった。元禄郷帳には高四六八石余とあり、当村枝郷としてうち新田・そと新田・瓢平ふくべだいら村がみえる。明治五年(一八七二)村明細帳によれば、田二六七石余・反別一八町一反余、畑二二五石余・反別二〇町一反余、御林冥加永一貫文余・石出冥加永三貫文余のほか水車二ヵ所の冥加永二五〇文が課せられていた。家数一〇一・人数四五九、馬一・牛一五。


大里村
おおさとむら

[現在地名]金砂郷村大里

東金砂ひがしかなさ山系最南端部の山田川下流の東側にあり、北は大平おおだいら村・久米くめ村。村内を天下野けがの街道が南北に走る。「常陸国風土記」の久慈郡の項に「近く郡家の南を経て、久慈の川に会ふ」とある郡家の位置は、山田川東の河岸段丘上の薬谷くすりや村との境界付近の地に比定される。「新編常陸国誌」久米郷の項に「コノ大里ハ古ノ雄薩駅ニテ、弘仁中始メテ駅家ヲ置カレ、奥州往還ノ大道ナリ」とある。

中世の大里郷の中心地で、康安二年(一三六二)の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「久慈東大里郷」とみえる。太閤検地後は佐竹義宣の蔵入地で、文禄五年(一五九六)の御蔵江納帳(同館蔵)によると皆川越後の預り地であった。


大里村
おおさとむら

[現在地名]八千代町大里

鬼怒きぬ川旧河道東に所在。東は大渡戸おおわだど村。明治初年の大里村絵図(飯田家蔵)によれば旧鬼怒川の自然堤防上に発達した集落で、近年は東方に展開して散居している。

大里多賀谷氏系図(多賀谷重郎蔵)などによれば、慶長六年(一六〇一)の下妻城主多賀谷重経が追放後に重経の子重成は川尻かわじり村の家臣古沢新右衛門方に身を寄せたが、やがて大里に住み郷士となった。「寛文朱印留」によれば土井利益(のち古河藩主)領であったが、宝暦一〇年(一七六〇)の領知高寄帳(吉田時和文書)には結城藩水野氏領としてみえる。


大里村
だいりむら

[現在地名]鴨川市大里

滑谷ぬかりや村の西、加茂かも川の中流域に位置し、長狭ながさ道が通る。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に大利村とみえ、高二七六石余(うち田方一五七石余)、里見氏給人領。同一一年の里見家分限帳には大里村とある。寛永一〇年(一六三三)旗本保科領となる。正保郷帳では高二〇七石余、うち田方一二五石余・畑方八二石余、同領。慶安元年(一六四八)同氏が大名になり飯野藩領となる。寛文元年(一六六一)保科正景が遺領を継ぐ際、弟正英に二千石を分知したが、そのなかに当村も含まれたとみられる。元禄九年(一六九六)幕府領に戻る(寛政重修諸家譜・寛文朱印留)


大里村
おおさとむら

[現在地名]塩沢町大里

のぼり川が魚野うおの川へ合流する三角地帯にある。北西の魚野川対岸は上十日町かみとおかまち村、東の登川対岸は三郎丸さぶろうまる村、南は八竜はちりゆう新田・小木六こきろく村。正保国絵図に村名がみえ、高一五〇石余。天和三年郷帳では高二〇六石九斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では新田高三九石三斗余が高入れされており、田一七町二反余・畑六町余。家数三二、男六三・女五八、牛二・馬一五。集落東端字ひがし一宮いちのみや神社がある。


大里村
おおざとむら

[現在地名]能勢町大里

宿野しゆくの村の南にあり、東を大路次おおろじ川がほぼ南流する。能勢郡西郷郷士覚書写(東家文書)に南北朝初期と推定される大里村の奥井氏以下一〇氏が書上げられている。文亀元年(一五〇一)から間もない頃作成された月峯寺水帳(月峯寺文書)にも村名が散見。文禄三年(一五九四)の検地では三一九石余(乾家文書)。寛政元年(一七八九)の杣高・木挽人別書上写(畑中家文書)によれば、「杣高三拾石 長谷組内大里村」とあり、御所造営などの普請夫役を負担している。


大里村
おおさとむら

[現在地名]越谷市大里

大林おおばやし村の北東に位置し、元荒川旧河道に沿って南北に通じる日光道中沿いに集落が列村状に連なる。宝永三年(一七〇六)の元荒川直道改修で川辺から離れた。田園簿に村名がみえ、高は田方二〇〇石余・畑方九六石余。幕府領で以後幕末に至る。元禄一〇年(一六九七)の検地帳(越谷市引継文書)によれば高三五一石余、反別は田方二五町四反余・畑方(屋敷を含む)一七町四反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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