近世の
当初見沼用水と称され、寛永六年(一六二九)に伊奈忠治が
享保一〇年(一七二五)には見沼溜井の干拓が計画され、淵江領の村々は用水末に位置していたため、開発を中止するように幕府に訴えた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
江戸中期,武蔵国足立郡(現,埼玉県さいたま市付近)の見沼干拓に伴い開削された灌漑用水。江戸幕府は享保改革の一政策として,1722年(享保7)に日本橋に高札を掲げ新田の開発を奨励し,町奉行大岡忠相(ただすけ)に武蔵野の開発を命じ,勘定奉行筧正鋪(かけいまさはる)に新田方掛を新設させた。新田方は翌年には勘定組頭2名と勘定5名が発令され,その中に紀州から呼ばれた井沢弥惣兵衛為永がいた。井沢らはおもに湖沼の干拓に当たったことで知られ,武蔵の見沼,下総の手賀沼や飯沼,越後の紫雲寺潟などの干拓事業が有名である。
見沼は武蔵国足立郡8ヵ領の用水溜井であって,1629年(寛永6)に勘定方伊奈半十郎忠治が造成した。その受益村数は221ヵ村で,高7万4000石余に達した。1725年に井沢は見沼を見分し,水下村々の反対を押し切って干拓を推進する方策を立てた。見沼周辺で希望する村に対し村請で新田を開発させることと,見沼に代わる新しい用水路を開削することの二つであった。開発はその翌々年三室村,片柳村など17ヵ村が請け負うこととなり,鍬下年季が3年,御普請冥加金として田方1反歩につき金1両,畑方同じく銀21匁を3年賦で上納すること,所々の用水大溝は御普請とし小溝,道筋,小橋は自普請とすることなどが条件とされた。干拓後987町7反歩余が半分は村割,半分は高割で配分された。このとき元荒川流域に存在した小室沼,柴山沼,笠原沼,屈巣沼なども干拓された。見沼の代用水は利根川右岸の埼玉郡下中条村(現,行田市)に元圦(もといり)を設けて引水し,新水路を掘削し,一部は星川の流路を利用した。同郡柴山村(現,白岡市)では伏越樋を設け元荒川の流路をくぐらせ,足立郡瓦葺村(現,上尾市)では綾瀬川を掛渡樋で通過,直後に流路は東西に分かれ,東縁用水は綾瀬川に平行して南下し旧見沼の東縁諸村を潤し,西縁用水は旧見沼の西縁に沿って南下し諸村の用水となった。こうして,1728年埼玉・足立両郡内303ヵ村,14万9000石余の大規模な見沼代用水が完成した。その管理は四川奉行(しせんぶぎよう),四川用水方普請役が担当した。
執筆者:大谷 貞夫
見沼代用水路開削後,井沢弥惣兵衛の手付鈴木文平とその実兄紀州和歌山元郷士高田茂右衛門の両人は,代用水路への通船御免の願書を幕府に提出し,1731年5月,老中松平乗邑(のりさと)の許可を得て見沼通船事業に着手した。両人は同年,代用水路と中悪水路(芝川)とを結ぶ見沼通船堀(横堀ともいう)を構築して須戸橋(現,行田市地内)-柴山伏越(現久喜市,旧菖蒲町)-見沼通船堀(現さいたま市緑区大間木,旧浦和市大間木)-芝川-荒川-江戸市中永代橋筋・神田川筋を結ぶ舟運路を開設した。見沼通船堀は,台地の縁を流れる見沼代用水の東縁用水,西縁用水と,それより約10尺の落差をもつ中悪水路とを連結する閘門(こうもん)式運河である。規模および構造は,東縁用水路と中悪水路とを結ぶ東縁通船堀(長さ約215間),西縁用水路と中悪水路とを結ぶ西縁通船堀(長さ約364間)の2個の通船堀から成り,両堀ともに水路幅の上幅4~6間,船溜の上幅約10間,それぞれの堀に2ヵ所ずつ木造の門扉(幅10尺5寸,高9尺,水流3間)を設置し,閘門の開閉によって水位を調節しながら船を上下に通過させた。これは日本最古の閘門式運河といわれている。
通船堀が構築されて見沼代用水の沿岸地域と江戸とが舟運で結ばれるようになり,灌漑期(3~11月)には中悪水路にのみ,非灌漑期(12~2月)には須戸橋以下の全水路に,大小の川船40艘(約200俵積みの中艜船(なかひらたぶね)38艘,艀(はしけ)2艘)が就航した。しかし59年(宝暦9)柴山伏越に併設されていた掛渡井が廃止されて以降,伏越以下の舟路にのみ通船した。見沼通船の権利は高田家と鈴木家とに与えられ,当初には両家が通船業務の差配役をつとめたが,のち高田家のみがそれを世襲した。見沼通船の主要業務は沿岸地域の年貢米の江戸への廻漕である。差配役は運上金50両を年々上納し,船40艘を排他的に所持し,代用水路,通船堀,芝川での就航権を独占し,沿岸諸村の年貢米運搬を定請(じよううけ)し,商人荷・百姓荷の運送を一手に掌握していた。このほかにも種々の特権が与えられていたが,それらをめぐって,文政~天保(1818-44)の時期には見沼通船騒動が発生している。
執筆者:葉山 禎作
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
埼玉県東部から南部の水田地帯を流れる関東平野最大の農業用水。幹線水路延長84キロメートル、灌漑(かんがい)面積1万7000ヘクタール。江戸中期、井沢弥惣兵衛(やそべえ)によって掘削された。名称は、新田開発のために干拓された見沼溜井(ためい)に代わる用水の意である。行田(ぎょうだ)市下中条(しもちゅうじょう)付近の利根(とね)川右岸に取水口をつくり、途中、星川の流路の一部を使い、元荒川や綾瀬(あやせ)川は伏越(ふせごし)といわれるサイホンで立体交差し、末端の見沼付近で東縁用水(ひがしべりようすい)・西縁用水に分かれる。さらに東縁用水は川口市から東京都に至り、西縁用水は大宮台地を切って高沼用水として荒川に達する。利根大堰(おおぜき)ができてから、旧取水口は閉鎖され、大堰から毎秒45トンの水を供給するようになった。
[中山正民]
1629年(寛永6)関東郡代伊奈(いな)半十郎忠治(ただはる)が、武蔵(むさし)国足立(あだち)郡大間木(おおまぎ)村(現、さいたま市緑区)に八丁堤を築いて造成した見沼溜井は、下流8か領221か村の水源として5000ヘクタールの水田を灌漑した。しかしこれにより沼周辺の地は水没し、上流は排水不良、下流は用水不足に悩まされた。享保(きょうほう)年間(1716~1736)の幕政改革による新田開発奨励策のもとで、これらの問題を解決し、あわせて溜井干拓による新田開発を目的として代用水路の開削が計画され、幕府勘定吟味(かんじょうぎんみ)役井沢弥惣兵衛為永(ためなが)に施工が命ぜられた。為永は1725年(享保10)溜井を検分、翌年測量に着手、1727年10月から1728年の2月までの5か月間で、延長84キロメートルに及ぶ大工事を完成させた。取水口には巨大な木造樋管(ひかん)を設け、途中、星川を利用して用水を導き、他の河川と交差する所では懸樋(かけどい)を架けるなど、さまざまな技術が駆使された。一方この工事と並行して見沼中悪水路(なかあくすいろ)(芝川)が掘削され、溜井の干拓が行われ、周辺を含めて新たに1800町歩の新田が開かれた。なお、為永は1731年に八丁堤の北で東・西縁用水と芝川を結ぶ通船堀を開き、舟運の便を図った。
[大村 進]
『見沼土地改良区編・刊『見沼代用水沿革史』(1957)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
江戸中期,武蔵国足立郡に開削された用水路。見沼溜井を用いてきた下流域の用水不足の解消と,見沼の干拓による新田開発を目的に開削。1725年(享保10)から翌年に,勘定吟味役格の井沢弥惣兵衛(やそべえ)が現地の検分・測量を行い,27年着工。利根川右岸の埼玉郡下中条村(現,埼玉県行田市)に元圦(もといり)を設け,延長3万間余の流路を開削し,翌年,埼玉・足立両郡内14万9000石余を灌漑する用水路が完成した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
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