深海村(読み)ふかみむら

日本歴史地名大系 「深海村」の解説

深海村
ふかみむら

[現在地名]牛深市深海町

北は久留ひさどめ(現天草郡河浦町)、東はなが島海峡を隔てて薩摩長島に相対し、南は久玉くたま村に接する。枝郷に下平浦しもひらうら村・浅海あさみ村があった。深海湾に面して古代製鉄跡の東多々良ひがしたたら製鉄跡、向山むかえやま古墳がある。

応長元年(一三一一)八月一四日付尼めうしやう避状案(志岐文書)に「ふかミ」とみえ、当地の百姓を妙性と志岐景弘(弘円)との両方より召使うことなどを定めた。正保郷帳に高六一石九斗余、下平浦村の高一二六石四斗余、浅海村の高五二石余とある。

深海村
ふかのみむら

[現在地名]高来町船津名ふなつみよう建山名たちやまみよう古場名こばみよう

藤田尾ふじたお村の西に位置する。近世初頭の豊臣秀吉による朝鮮出兵中に、深堀純賢は所領の筑前国戸萱(現未詳)などを秣料として公儀に献上、朝鮮から帰陣すると主君鍋島直茂から、旧領の代りとしてうら(現飯盛町)中山なかやま(現諫早市)とともに与えられたという(「深堀茂宅由緒」佐賀県立図書館蔵)。文禄五年(一五九六)「伊佐早庄ふかの村」の五人が伊勢参宮に赴いているが(「御参宮人帳」橋村家文書)、当地の可能性が高い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の深海村の言及

【牛深[市]】より

…熊本県天草下島の南端にあり,リアス海岸の良港をもつ県下一の水産都市。1954年牛深町と深海(ふかみ),魚貫(おにき),久玉,二浦の4村が合体,市制。人口2万0097(1995)。天附(あまつけ)の縄文・弥生遺跡は早くから人が住みついたことを物語る。中世天草五人衆の一人久玉氏が久玉城(海城)を構築,その後南蛮貿易,海運業の隆盛に伴い,長崎,薩摩,琉球への中継寄港地として牛深港が栄えた。江戸時代の初め牛深,後には久玉も天草定浦(じよううら)の一つとなって漁業がおこり,初めはカツオ漁,明治後期以降はイワシ漁で知られた。…

※「深海村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android