清原満定(読み)きよはらのみつさだ

朝日日本歴史人物事典 「清原満定」の解説

清原満定

没年弘長3.11.2(1263.12.4)
生年:建久6(1195)
鎌倉中期の幕府評定衆。『尊卑分脈』によると,父は幕府公事奉行人の清定。左衛門少尉。『吾妻鏡』は仁治1(1240)年評定衆に任ぜられたとする(なお『関東評定衆伝』は前年の延応1年就任とする)。これは同職に就いていた兄弟の長定が前年死亡したあとを継いだものとみられる。『吾妻鏡』での満定の活動も仁治1年から明らかとなる。彼は,評定会議において奉行人的役割を果たすことが多く,右筆役も勤める。また政所家司として,幕府の諸行事や神仏事で実務担当として携わっている。

(佐々木文昭)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清原満定」の解説

清原満定 きよはらの-みつさだ

1195-1263 鎌倉時代の幕府官僚。
建久6年生まれ。清原清定(きよさだ)の子。左衛門尉(さえもんのじょう)。「吾妻(あづま)鏡」によると,仁治(にんじ)元年(1240)評定(ひょうじょう)衆となる。政所(まんどころ)家司(けいし)として幕府の諸行事や仏事,神事の実務にもたずさわった。弘長(こうちょう)3年11月2日死去。69歳。

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