日本大百科全書(ニッポニカ) 「宋の時代」の意味・わかりやすい解説 宋の時代(年表)そうのじだいねんぴょう 960(建隆1) 趙匡胤(ちょうきょういん)即位。宋朝の成立963(乾徳1) 荊南(けいなん)を滅ぼす。高麗(こうらい)、宋に服属965(乾徳3) 後蜀(こうしょく)を滅ぼす971(開宝4) 広州に市舶司を置く。南漢を滅ぼす975(開宝8) 南唐を滅ぼす978(太平興国3) 呉越を滅ぼす979(太平興国4) 北漢を滅ぼす。中国統一完成。遼(りょう)と戦い高梁河で大敗980(太平興国5) 差役法を定める982(太平興国7) 李継遷(りけいせん)反す983(太平興国8) 『太平御覧』完成。類書の編纂が続く992(淳化3) 常平倉を設置する993(淳化4) 四川に均産一揆起こる(~995)。三司使を置く994(淳化5) 高麗、契丹に服属997(至道3) 全国を15路に分け、各路に転運使を置く1002(咸平5) 李継遷が霊州を陥れる1004(景徳1) 遼が侵入。真宗が親征して澶淵の盟を結ぶ1007(景徳4) 江淮より年600万石の穀物を北送させる1008(大中祥符1) 真宗の泰山封禅1012(大中祥符5) 福建より占城稲の種子を江淮・両浙に移入して生産させる1022(乾興1) 限田法施行。官戸・形勢戸の土地所有を制限1023(天聖1) 益州に交子務を置き、官営交子を発行1036(景祐3) 呂夷簡(りょいかん)が范仲淹(はんちゅうえん)・欧陽修(おうようしゅう)らを左遷。朋党の争い始まる1038(宝元1) 李元昊(りげんこう)、大夏皇帝を称す(西夏の成立)1044(慶暦4) 西夏と和平する。全国の州・県に学校を建設1050(皇祐2) 范仲淹が義荘を始める1060(嘉祐5) 欧陽修が『新唐書』を著す1069(煕寧2) 王安石が参知政事となる。三司条例司が置かれ均輪法・青苗法などの新法の開始1070(煕寧3) 保甲法・募役法の施行1072(煕寧5) 市易法・保馬法・方田均税法の施行1073(煕寧6) 『太極図説』を著した周敦頤(しゅうとんい)没す(1017―)1074(煕寧7) 王安石が宰相を罷免される。翌年、再就任1076(煕寧9) 王安石が失脚。市舶司を広州1か所に統一1080(元豊3) このころ元豊の官制改革が行われる1081(元豊4) このころ西夏と連年交戦1084(元豊7) 司馬光が『資治通鑑』を献上1085(元豊8) 神宗が没。哲宗が即位。宣仁太后の執政。市易法・方田均税法が廃止される1086(元祐1) 司馬光が宰相となる。募役法・保馬法・青苗法の廃止1093(元祐8) 宣仁太后が死に、哲宗が親政する1094(紹聖1) 新法党を用い、旧法党を左遷1100(元符3) 哲宗が死に、徽宗(きそう)が即位1101(建中靖国1) 文人蘇軾(そしょく)没す(1036―)1102(崇寧1) 蔡京(さいけい)、宰相となる。このころ徹底的に旧法党を弾圧1112(政和2) 限田免役法を施行1115(政和5) 完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)が金を建てる1118(重和1) 宋が金に遼を挟攻することを謀る1120(宣和2) 方臘(ほうろう)の乱起こる(~1121)1122(宣和4) 遼都燕京(えんけい)(北京)を攻めるが失敗(金が燕京を落とす)1125(宣和7) 金が遼を滅ぼす。金が宋の首都開封を攻撃。徽宗退位、欽宗即位1126(靖康1) 開封陥落。靖康の変1127(建炎1) 北宋が金に滅ぼされる。高宗が南京(ナンキン)で即位して南宋が成立する1129(建炎3) 苗傅(びょうふ)・劉正彦(りゅうせいげん)の乱。金が南京・臨安(杭州)を陥れ、高宗が海上に逃げる1130(建炎4) 湖南で均産一揆が起こる(~1135)1131(紹興1) 秦檜が宰相となる1136(紹興6) 岳飛が中原回復を建議する1138(紹興8) 都を臨安(杭州)に移し、行在(あんざい)と称す1141(紹興11) 秦檜が岳飛を殺す1142(紹興12) 金と和議を結んで臣礼をとる。土地を測量、申告させ、初めて経界法を行う1160(紹興30) 初めて会子が発行される1161(紹興31) 金の海陵王が淮南に侵入。采石磯(さいせきき)の戦いで金軍を大破する1165(乾道1) 金と講和。臣礼をやめ叔姪の関係となる1172(乾道8) 朱熹(しゅき)の『資治通鑑綱目』成る1181(淳煕8) 朱熹の発案で社倉法を施行1183(淳煕10) 道学の禁止。『続資治通鑑長編』成る1195(慶元1) 韓侂冑(かんたくちゅう)が慶元の党禁を起こし朱熹一派を弾圧、以後十余年間専横1200(慶元6) 朱熹没す(1130~)1206(開禧2) 韓侂冑が金を攻めて敗れる。チンギス・ハンがモンゴルを統一1208(嘉定1) 金と和睦。伯姪の関係となる。史弥遠が宰相となり権勢を振るう1227(宝慶3) モンゴルが西夏を滅ぼす1234(端平1) モンゴルが金を滅ぼす1258(宝祐6) モンケ・ハンが南宋に親征。翌年病死1259(開慶1) フビライ・ハンが鄂州(がくしゅう)を包囲。賈似道(かじどう)が宰相となり以後16年間権勢を振るう1263(景定4) 賈似道が公田法を行う1268(咸淳4) モンゴルが襄陽を包囲する1271(咸淳7) フビライ・ハンが国号を元と称し大都(北京)に遷都1273(咸淳9) 元が襄陽を陥れる1275(徳祐1) 文天祥(ぶんてんしょう)が勤王の軍をおこす1276(景炎1) 元が首都臨安(杭州)を陥落させる1277(景炎2) 泉州の市舶使蒲寿庚(ほじゅこう)が離反し、宋の皇族・兵士を殺す1279(祥興2) 南宋滅亡 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例