清戸下宿(読み)きよとしたじゆく

日本歴史地名大系 「清戸下宿」の解説

清戸下宿
きよとしたじゆく

[現在地名]清瀬市下宿したじゆく一―三丁目・旭が丘あさひがおか一―六丁目など

現清瀬市の北東端部に位置する。江戸時代は多摩郡の最も北にあり、柳瀬やなせ川南岸沿いの沖積低地とその南の台地上にあたる。東は新座にいくら大和田おおわだ(現埼玉県新座市)、南は下清戸村、西は中里なかざと村、北西は入間郡坂下さかのした村・しろ村・本郷ほんごう(現埼玉県所沢市)。清戸下宿村・下宿村とも記される。戦国期には清戸の内に含まれ、当地を小田原北条氏が設置した清戸番所の所在地とする説がある。天正一八年(一五九〇)の徳川氏関東入封により、同一九年五月旗本の太田清政に「清戸本村」一四五石余が宛行われている(記録御用所本古文書)。この記載は、近世初頭には清戸に本村のほかに「分村」に相当する集落があり、それがのちの下清戸・中清戸・上清戸三ヵ村につながることを推測させる。太田氏が寛永一〇年(一六三三)に改易されたのち、同一九年小姓組番頭石川総長知行となり、慶安四年(一六五一)総長が伊勢神戸藩主として転封したのち、幕末まで幕府領(「寛政重修諸家譜」・高橋家文書など)

田園簿では下宿村とみえ、田方五三石余・畑方九二石余、ほかに永一二四文の野銭を旗本石川氏に納める。元禄郷帳には清戸下宿村とみえ、村高は同じ。享保一九年(一七三四)および宝暦(一七五一―六四)新田検地を経て、天保郷帳では高一八九石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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