渡辺篤(読み)ワタナベ アツシ

20世紀日本人名事典 「渡辺篤」の解説

渡辺 篤
ワタナベ アツシ

大正・昭和期の俳優



生年
明治31(1898)年4月9日

没年
昭和52(1977)年2月27日

出生地
東京市浅草区西鳥越町

出身地
群馬県

本名
渡辺 総一

学歴〔年〕
小学校卒業

経歴
大正10年オペラ俳優を諦め牧野教育映画製作所へ入社。「兄弟仲は」で主演デビュー。松竹蒲田東亜キネマ・松竹下加茂と転じ、14年下加茂の閉鎖で再び蒲田へ。14年「愛妻の秘密」で主演後、とぼけた喜劇役者として大活躍。昭和2年短篇喜劇の主演俳優に起用され主として斉藤寅次郎監督と組んで「石川五右衛門の法事」「モダン籠の鳥」など多数に出演。蒲田喜劇俳優の一任者となる。6年松竹を退社し不二映画創立に参加するが8年解散。笑の王国を経て、10年東宝入社。古川緑波の主演映画などに出演。戦後もフリーで多数の作品に出演するが、黒沢明監督の「生きる」「用心棒」など一連の作品で味のある演技を被露した。45年「どですかん」を最後にスクリーンを去った。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

新撰 芸能人物事典 明治~平成 「渡辺篤」の解説

渡辺 篤
ワタナベ アツシ


職業
俳優

本名
渡辺 総一

生年月日
明治31年 4月9日

出生地
東京市 浅草区西鳥越町(東京都 台東区)

出身地
群馬県

経歴
大正10年オペラ俳優を諦め牧野教育映画製作所へ入社。「兄弟仲は」で主演デビュー。松竹蒲田・東亜キネマ・松竹下加茂と転じ、14年下加茂の閉鎖で再び蒲田へ。14年「愛妻の秘密」で主演後、とぼけた喜劇俳優として大活躍。昭和2年短篇喜劇の主演俳優に起用され主として斉藤寅次郎監督と組んで「石川五右衛門の法事」「モダン籠の鳥」など多数に出演。蒲田喜劇俳優の一任者となる。6年松竹を退社し不二映画創立に参加するが8年解散。笑の王国を経て、10年東宝入社。古川緑波の主演映画などに出演。戦後もフリーで多数の作品に出演するが、黒沢明監督の「生きる」「用心棒」など一連の作品で味のある演技を被露した。45年「どですかん」を最後にスクリーンを去った。

没年月日
昭和52年 2月27日 (1977年)

出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「渡辺篤」の解説

渡辺篤 わたなべ-あつし

1898-1977 大正-昭和時代の俳優。
明治31年4月9日生まれ。浅草オペラから映画界に転じ,昭和6年松竹蒲田の日本最初のトーキー映画マダム女房」に主演。のち古川緑波(ろっぱ)の笑の王国にくわわる。戦後は黒沢明監督の「七人の侍」「生きる」などに出演。昭和52年2月27日死去。78歳。東京出身。本名は総一。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の渡辺篤の言及

【軽演劇】より

…その一党が中心となって33年に浅草常盤座で〈笑いの王国〉が旗揚げした。役者として生駒雷遊(いこまらいゆう)(1895‐1964),山野一郎,古川緑波(ロッパ),大辻司郎(1896‐1952),渡辺篤(1896‐1977),関時男,清川虹子ら,作家陣に菊田一夫,大町竜夫,貴島研二,山下三郎らが加わった。一夜づけの脚本による,いわゆる〈アチャラカ芝居〉なる言葉はここから生まれた。…

※「渡辺篤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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