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満州開拓

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

満州開拓

満州開拓は「農村の過剰人口問題を打開するため」などの理由で満州事変直後の1932(昭和7)年、「武装移民」として始まり、36年に「20カ年100万戸移民計画」として国策化された。しかし、成人男性が兵力に動員される中、計画通りに進まず、38年に設立された満蒙開拓青少年義勇軍が補う形になった。山形県は長野県に次ぐ送出県で開拓民と義勇軍の計約1万7千人が旧満州に渡ったと見られる。「山形県史拓殖編」によると死者は開拓民6146人、義勇軍895人、計7041人に達した。

(2014-08-12 朝日新聞 朝刊 宮城全県 1地方)

出典|朝日新聞掲載「キーワード」
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

満州開拓
まんしゅうかいたく

日本が満州(中国東北地区)支配の一環として行った国策移民。満州への移民は、日露戦争(1904~05)後、関東都督(かんとうととく)府や南満州鉄道(満鉄)により農業移民という形で行われたが、満鉄付属地に入植した一部のものを除き失敗に終わった。本格的な満州移民の送出は、満州事変(1931)後、関東軍の主導下に展開されたが、それはおおよそ次の3時期に区分できる。[風間秀人]

第一期

1932年(昭和7)より36年までの試験移民期。農業教育家加藤完治(かんじ)や拓務省の協力のもとに在郷軍人会を中心とした武装試験移民が送出された。[風間秀人]

第二期

1937年より41年までの本格的移民期。36年広田弘毅(こうき)内閣より20か年100万戸移民計画が発表され、大量の満州移民団が送出された。[風間秀人]

第三期

1942年より45年までの移民崩壊期。国内農業者の大量兵員化と軍需徴用のために移民団が組織できず、移民送出は停滞、ついには全面停止に至った。なお同時期には、1937年に設立された満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍(15~18歳の少年で組織)が、一般移民団送出の停滞を補完すべく、移民の中軸となっていった。
 満州移民の送出形態は、村内の貧農を中心に村を分割する分村移民や近隣、数か村の移民者を集めて一移民団とした分郷移民を主としており、送出、受入機関として満州移住協会、満州拓殖会社が設立された。1945年までに送出された移民数は、満蒙開拓青少年義勇軍約10万人を含め、約32万人であった。
 移民の目的は、昭和農業恐慌打開のための貧農送出とともに、満州の治安確保、対ソ防備・作戦上の軍事的補助者としての役割を移民団に課すことにあった。そのため、移民入植地には、当時ソ連との国境に近い北満州が選定され、2000万ヘクタールの移民用地が強制収用された。しかし、この土地収奪は逆に反満抗日運動を激化させた。1934年3月、三江(さんこう)省依蘭(いらん)県土竜(どりゅう)山地区の農民3000人が謝文東(しゃぶんとう)の指揮により移民団を襲撃した土竜山事件は、その代表的なものであった。45年8月9日のソ連参戦により、対ソ戦の軍事要地に入植していた移民団は大きな犠牲を出し、日本に帰国しえたのは11万余人にすぎなかった。[風間秀人]
『満州移民史研究会編『日本帝国主義下の満州移民』(1976・龍渓書舎)』

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