日本の植民地統治に関する事務を統括した政府中央機関。植民地行政に関する中央官庁は,日清講和条約により台湾が日本の領土となった直後の1895年6月,台湾事務局が内閣に置かれたのに始まる。その後,先進国にならって植民地に関する独立の一省として拓殖務省(1896-97)や内閣拓殖局(1910-13,1917-22)などが断続的には設置されてきた。1927年11月,朝鮮,台湾,樺太,関東州,南満州鉄道(満鉄)などの植民地行政の一元化を図るため独立の一省を設けるべく,田中義一内閣は拓殖省設置準備委員会を設け,29年の第56回帝国議会で拓殖省所管予算を通過させた。拓殖省の名称は,枢密院側の異議で拓務省に改められ,29年6月10日,官制の公布により設置された。拓務省官制第1条には,拓務大臣は朝鮮総督府,台湾総督府,関東庁,樺太庁および南洋庁に関する事務を統理し,南満州鉄道および東洋拓殖の業務を監督する権限を有し,また渉外事項に関するものを除くほか,移植民に関する事務および海外拓殖事業の指導奨励に関する事務を管理すると規定された。しかし,満州事変以後,陸軍の勢力が増大するにしたがって拓務省廃止論が起こり,34年12月には内閣に対満事務局が設置され,満州における拓殖事業に関する事務は同事務局に移管された。35年6月拓務省は南洋調査隊を派遣するなどしたが,42年11月大東亜省の設置(1945.8.25廃止)により,同年10月31日廃止され,朝鮮台湾樺太関係事務は内務省に移管され,他は大東亜省の主管となった。
執筆者:河村 一夫
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戦前、日本の植民地行政を統理した中央官庁。植民地行政は、日清(にっしん)戦争後に設置された台湾事務局以来めまぐるしく変化してきたが、植民地の増大、事務の拡大に対応して、1929年(昭和4)6月10日設置された。政府は1927年拓殖省設置準備委員会を設け、2年後の第56議会で予算を通過させ、名称を拓務省と変更して6月に官制を公布した。拓務大臣は朝鮮総督府、台湾総督府、関東庁、樺太(からふと)庁、南洋庁に関する事務を統理し、南満州鉄道株式会社、東洋拓殖株式会社の業務を監督する権限をもち、また移植民、海外拓殖事業に関する事務も管理した。拓務大臣の朝鮮総督府監督権については、当初から問題となったため、田中義一(ぎいち)首相兼拓相は他地域と同様であると声明した。満州事変後、対満行政機関調整が課題となり、34年12月首相の指揮監督下に対満事務局が設けられ、関東庁、満鉄などに関する権限は同局に移された。さらに太平洋戦争の進行に伴い、42年11月1日付けで大東亜省が設置され、拓務省は対満事務局、興亜院とともに廃止された。朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁の業務は内務省へ、南洋庁の業務と職員の多くは大東亜省へ移った。
[君島和彦]
『戦前期官僚制研究会編、秦郁彦著『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』(1981・東京大学出版会)』
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昭和初期に外地の諸機関を監督した中央官庁。田中義一内閣下の1929年(昭和4)6月10日外地行政一元化のために設置され,従前の内閣拓殖局は廃止された。拓務大臣は朝鮮総督府・台湾総督府・関東庁・樺太庁・南洋庁の事務を統理し,満鉄の事務を監督し,渉外事務を除く拓殖事務を管掌した。統理とは指揮ではなく弱い監督程度の内容。34年12月対満事務局設置により満州関係事務が削除され,42年11月大東亜省設置で廃止された。
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