満州事変(読み)まんしゅうじへん

精選版 日本国語大辞典 「満州事変」の意味・読み・例文・類語

まんしゅう‐じへん マンシウ‥【満州事変】

昭和六年(一九三一)九月一八日、奉天(今の瀋陽北方柳条湖における鉄道爆破事件契機として始まった日本関東軍による満州中国東北部)侵略戦争の日本での呼称若槻内閣は不拡大方針をとったが、危機に立つ日本資本主義は経済的にも軍事的にも満州占領を望み、軍は政府の方針を無視して満州全土を占領、翌年三月に満州国を樹立した。以後一五年に及ぶ日中戦争発端となった。中国では「九・一八事変」という。

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デジタル大辞泉 「満州事変」の意味・読み・例文・類語

まんしゅう‐じへん〔マンシウ‐〕【満州事変】

1931年(昭和6)9月18日、奉天(今の瀋陽)郊外での柳条湖事件を契機に始まった、日本の中国東北部への侵略戦争。翌年満州国独立を宣言、さらに熱河省を占領、国民政府塘沽タンクー停戦協定を締結して満州領有を既成事実化した。

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百科事典マイペディア 「満州事変」の意味・わかりやすい解説

満州事変【まんしゅうじへん】

1931年9月18日柳条湖事件から起こった日本の満州(中国東北)侵略戦争。政府は不拡大方針をとったが現地軍が独走,翌1932年1月までにほぼ東三省を占領,3月1日満州国の建国を宣言した。9月斎藤実内閣日満議定書に調印して満州国を承認。現地軍は1932年7月〜1933年3月熱河省も占領,国民政府も既成事実を黙認した。国際連盟リットン調査団を派遣し日本の撤兵を要求したが,日本は拒否,1933年国際連盟を脱退した。
→関連項目甘粕正彦荒木貞夫石原莞爾石原広一郎板垣征四郎犬養毅内閣関東軍関東庁九ヵ国条約抗日戦争河本大作桜会上海事変正力松太郎昭和恐慌新興コンツェルン神武会杉山元スティムソンスノー全国労農大衆党第2次世界大戦太平洋戦争(日本)塘沽停戦協定中華人民共和国張学良陳雲転向文学土肥原賢二特務機関ドル買事件中村大尉事件日本馬占山林銑十郎反戦運動北進論満鉄万宝山事件森恪芳沢謙吉リットン報告書若槻礼次郎内閣

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「満州事変」の意味・わかりやすい解説

満州事変
まんしゅうじへん

1931年(昭和6)9月18日の柳条湖(りゅうじょうこ)事件に始まった日本軍の満州(中国東北地域)侵略戦争。

[君島和彦]

前史

満州、とくに南満州は、日本が日露戦争後に長春(ちょうしゅん)(寛城子)―旅順(りょじゅん)間の鉄道およびその付属の利権を獲得し関東州を租借して以来、日本資本主義にとって資本投資・商品市場・重工業原料供給地となり、特殊権益地域、日本の「生命線」として重視された。日本は第一次世界大戦後、奉天(ほうてん)軍閥張作霖(ちょうさくりん)を援助しつつ中国関内への侵略をねらっていたが、1928年(昭和3)の張作霖爆殺事件によって、張学良(ちょうがくりょう)が蒋介石(しょうかいせき)の国民政府に合流〔易幟(えきし)〕して以来、満州でも帝国主義的利権の回収運動や日本商品排斥運動が激化した。また大恐慌によって、大豆をおもな輸出産物とする満州農業経済は不振となり、工業恐慌も加わって満鉄の営業成績が悪化した。そのうえに、国民政府や張学良政権による、満鉄線以外の鉄道を使って北満の物資を南満の営口(えいこう)などへ輸送するための、いわゆる満鉄包囲線(並行線)の建設計画が満鉄に脅威を与えた。これらが日本国内では「満蒙(まんもう)の危機」と宣伝され、31年7月の万宝山(まんぽうざん)事件や8月に公表された中村大尉事件とともに排外主義の高揚に利用された。

[君島和彦]

柳条湖事件

かねてから関東軍高級参謀板垣征四郎(いたがきせいしろう)大佐、同作戦主任参謀石原莞爾(かんじ)中佐らが中心となり、満蒙領有計画が立案されていた。1931年の三月事件の経験や、排外熱の高揚を踏まえて関東軍は、参謀本部第一(作戦)部長建川美次(たてかわよしつぐ)少将をはじめ軍中央部と連絡をとりつつ、9月18日夜10時半、奉天郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破、これを張学良軍の仕業と称して軍事行動を起こした。張学良軍の宿営北大営(ほくだいえい)と奉天城への攻撃から始まり、翌日には奉天市をはじめ満鉄沿線の主要都市を占領した。さらに吉林(きつりん)への出兵を機に、9月21日には朝鮮軍が司令官林銑十郎(せんじゅうろう)中将によって独断越境、戦火は南満州全体に拡大した。事件勃発(ぼっぱつ)直後、不拡大方針をとった若槻礼次郎(わかつきれいじろう)内閣も22日の閣議では、独断越境という統帥権干犯を追及せず、他の軍事行動とともに既成事実を追認、予算支出を承認した。24日には日本軍の軍事行動の正当性と今後の不拡大方針の声明を発表し、政府は事件を公認した。

[君島和彦]

満州国

1931年10月の錦州(きんしゅう)爆撃などにより南満州を占領したのち、関東軍は北部満州の占領を企図し、11月チチハルの占領に続いて32年2月にはハルビンを占領、以後北満の主要都市を占領した。当初満蒙領有を計画していた関東軍は9月中旬に満州支配方式を傀儡(かいらい)国家樹立に変更決定し、10月には「満蒙共和国統治大綱案」を作成、統治方針や政府組織を決めるとともに、各地の軍閥軍人に地域的独立政権をつくらせ、11月には天津(テンシン)に亡命中の清(しん)朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を脱出させ、新国家の元首にする準備を進めた。32年1月末、中国でとくに抗日運動の激化している上海(シャンハイ)で日本海軍陸戦隊と中国軍の衝突が起こった(第一次上海事変)。この間を縫って3月1日、張景恵(ちょうけいけい)ら旧軍閥軍人による東北行政委員会が「満州国」成立を宣言し、9日溥儀が執政に就任して新国家が出発した。「満州国」は関東軍がその実権を握った傀儡国家である。また満州での日本の軍事行動は、中国によって国際連盟に提訴され、リットン調査団が派遣されていたが、「満州国」成立の日は調査団が東京に着いた翌日であり、日本が「満州国」を承認し日満議定書に調印した9月15日は、調査団がその延期を要望し、報告書執筆中の時期であった。日本はいずれも既成事実で調査団に対抗したのであり、国際世論への挑戦でもあった。「満州国」成立に至る過程は、おもに関東軍の推進したものであるが、それは政府や軍中央部の許容範囲であり、三井(みつい)・三菱(みつびし)両財閥が「満州国」成立直後の4月に、満州中央銀行設立のために各1000万円の融資を行ったように、独占資本の要求でもあった。これに対し、中国では国民党と共産党が内戦中であり、一致して民族的危機に立ち向かえなかった。満州と国境を接していたソ連も国内建設を優先しており、大恐慌の荒れ狂う英米も日本の侵略に宥和(ゆうわ)的であった。満州侵略はこのような条件下で実行されたのである。

[君島和彦]

華北分離工作

日本は満州植民地支配を、1933年5月末の塘沽(タンクー)停戦協定によって国民政府に事実上認めさせた。しかし35年に入ると、日本陸軍は、中国の華北五省(河北、山東、山西、チャハル、綏遠(すいえん))を国民政府から分離独立させ日本の支配下に置く計画をたて始めた。その理由は、反満抗日軍の根拠地が華北にあり、満州国の治安を安定させるためには、華北五省の支配が不可欠というものであり、同時に、華北の石炭、鉄などの資源と農産物、そして市場をもねらっていた。満州事変の処理が、新たに華北への侵略を必要とし、やがて日中全面戦争へと突入していくのである。

[君島和彦]

『江口圭一著『日本帝国主義史論』(1975・青木書店)』『歴史学研究会編『太平洋戦争史1 満州事変』(1971・青木書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「満州事変」の意味・わかりやすい解説

満州事変
まんしゅうじへん

1931年9月 18日の柳条湖事件に始り,33年5月 31日の塘沽 (タンクー) 停戦協定にいたる間の日本の満州 (現中国東北地方) 侵略戦争。日露戦争以来,南満州鉄道株式会社 (満鉄) を拠点として満州に対する独占的支配に乗出した日本は,「満蒙は日本の生命線」であると強調して政治的経済的進出をはかり,31年9月 18日関東軍が奉天 (現シェンヤン) 郊外の柳条湖で満鉄を爆破してこれを中国軍の行為であるとし,「自衛のため」と称して満鉄沿線一帯で軍事行動を起し,ほとんど無抵抗の中国軍を追って 31年中にほぼ満州全域を占領,32年3月傀儡 (かいらい) 国家「満州国」をつくった。蒋介石の国民政府は当時,共産軍に対する包囲作戦に全力をあげており,もっぱら対日妥協をはかろうとした。この間上海で十九路軍が日本軍と戦ったにすぎない。国際連盟は中国の提訴により満州事変を取上げ,リットン調査団を派遣し,その報告書を採択,日本軍の東北撤退を勧告した。しかし,33年2月からの熱河作戦で熱河省を占領した日本は,3月国際連盟を脱退し,5月中国との間で塘沽停戦協定を結んだ。一方,日本国内では,満州事変がファシズム体制成立への端緒となり,若槻礼次郎内閣が倒れて犬養毅内閣が成立したが,五・一五事件によって斎藤実内閣に取って代られ,政党内閣に終止符が打たれた。こうして日本のファッショ化と国際的孤立が急速に進み,満州事変は日中戦争へ,さらに太平洋戦争へと拡大されていった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「満州事変」の解説

満州事変
まんしゅうじへん

1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件から33年5月の塘沽(タンクー)協定までの日本による中国東北部(奉天・吉林・黒竜江)・内蒙古東部への一連の武力侵攻。その結果32年3月1日,関東軍の影響下に満州国が建国された。関東軍は対ソ戦の基地確保と中国による権益回収への予防措置として,関東軍参謀石原莞爾(かんじ)らの主導で武力による満蒙領有計画を実行に移した。柳条湖事件勃発後,中国は国際連盟に提訴し,以後,日本の軍事行動を抑止しようとする国際連盟と,それに挑戦する関東軍が鋭く対立していく。若槻内閣は事変の不拡大方針をとったが,関東軍の軍事行動の積み重ねに,国際連盟やオブザーバー国アメリカは日本政府の軍部統御能力に不信をもった。とくに連盟は,満鉄付属地に対する自衛権行使とは弁明できないとして,張学良軍の根拠地錦州への爆撃(31年10月8日。32年1月3日占領)と,北満侵攻(31年11月19日チチハル占領)を重視した。32年1月7日,アメリカのスチムソンが非合法手段による満州の現状変更は認めないという不承認声明を発表した。調査団派遣を要求する日本の提案をうけてリットン調査団が事件現場と中国・日本を訪問し,同年9月30日に報告書を連盟に提出したが,報告書発表前の9月15日に日本は満州国を承認した。満鉄付属地への早期撤退と中国の満州に対する主権承認を内容とするリットン報告書は,33年2月24日の国際連盟総会で採択され,日本は3月27日に連盟脱退を通告。さらに熱河作戦をすすめて軍事支配領域を拡大,33年塘沽協定によって満州の中国本部からの分離が確定した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「満州事変」の解説

満州事変
まんしゅうじへん

1931(昭和6)年9月の奉天郊外でおこった柳条湖事件に始まる日本の満州に対する軍事行動(〜'33)
満州市場は日本の対外投資の7割に達しており,特に工業製品の重要な輸出市場であるとともに,農産資源や鉄・石炭・アルミ原料の供給地でもあった。政府・軍部は「満蒙は日本の生命線」と宣伝。'31年9月18日関東軍による南満州鉄道爆破事件を中国側の行為として,関東軍は軍事行動を展開。第2次若槻礼次郎内閣の不拡大方針に反して,東三省(奉天・吉林・黒竜江の3省)を武力占領し,満州国として独立させ,さらに熱河省を占領した。国際連盟は中国側の提訴に応じ,リットン調査団を派遣し,柳条湖事件は日本の自衛行動と認めず,満州国も否定する報告書に基づく対日勧告を採択した。日本は連盟を脱退し,連盟やアメリカとの対立を深めていった。

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世界大百科事典 第2版 「満州事変」の意味・わかりやすい解説

まんしゅうじへん【満州事変】

日本の中国東北・内蒙古への武力侵略戦争。いわゆる十五年戦争の第1段階。1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件を発端とし,狭義には33年5月31日塘沽(タンクー)停戦協定までの期間,広義には37年7月7日蘆溝橋事件による日中戦争全面化までの期間を指す。
[原因,準備]
 日露戦争後のポーツマス会議で日本は帝政ロシアから関東州・南満州鉄道などの権益を譲渡させ,中国の東北(東三省(奉天,吉林,黒竜江の3省)。

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旺文社世界史事典 三訂版 「満州事変」の解説

満州事変
まんしゅうじへん

1931年9月に起きた柳条湖 (りゆうじようこ) 事件に始まる日本の満州侵略戦争
かねてから満州占領の機会をねらっていた日本軍は,奉天近郊の柳条湖で鉄道爆破事件を起こして軍事行動を全満州に広げ,翌1932年満州国を成立させた。1933年には熱河省を占領して塘沽 (タンクー) 停戦協定を結び,満州国に編入した。中国の提訴を受けた国際連盟は,リットン調査団を派遣し,この事実を日本の侵略と判断した。そのため,日本は1933年国際連盟を脱退。

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