滝野沢村(読み)たきのさわむら

日本歴史地名大系 「滝野沢村」の解説

滝野沢村
たきのさわむら

[現在地名]大江町本郷ほんごう

月布つきぬの川中流曲流部の東端に位置し、川に近い低位段丘とその東の高位段丘に集落がある。西の曲流部に葛沢くずさわ村、東の段丘上に上北山かみきたやま村が点在する。滝ノ沢村とも書き、曲流部の段丘崖から何本かの水流が落下し、滝の多いところからきた地名である。最上氏領から元和八年(一六二二)幕府領となり、寛永元年(一六二四)の郷替えによって左沢藩領となる。同八年幕府領庄内藩預地、翌九年庄内藩領、慶安二年(一六四九)松山藩領となる。天明五年(一七八五)から三年間幕府領となり、同八年再び松山藩領となり幕末に至る。


滝野沢村
たきのさわむら

[現在地名]大田原市滝岡たきおか

東へ流れるほうき川左岸にあり、東は上沼かみぬま村。百村もむら川が南東流して箒川に注ぐ。湧水地が多い。天正一八年(一五九〇)の那須藤王丸資景知行目録(那須文書)に「たきの沢」とみえ「下のま」(下沼か)とともに二一九石八斗一升。慶安郷帳では下沼しもぬま村と別に滝之沢村と記され、田一二四石余・畑六三石余。初め那須藩領、旗本那須領・幕府領を経て天和二年(一六八二)以降旗本久留島領。天保年間(一八三〇―四四)の家数一一(改革組合村)。当村・岡和久おかわぐ村と箒川右岸の幕府領大神おおがみ村との間に村および秣場の境界争論が文化年中(一八〇四―一八)に起こっている。箒川氾濫原を流れる川筋洪水ごとに変わることが争いの原因で、文化六年に至り、現在高請をしている開墾地以外今後いっさい新田の開発をしないこと、秣の刈取場所は従前どおり両者の入会とすること、鮎簗はどこへかけてもよいことなどとし、境界を取決めた(「取替証文」大島ふみ文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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