瀬高上庄村(読み)せたかかみのしようむら

日本歴史地名大系 「瀬高上庄村」の解説

瀬高上庄村
せたかかみのしようむら

[現在地名]瀬高町上庄かみのしよう

現瀬高町の北西端、南西流する矢部やべ川西岸にある。対岸瀬高下庄村。同村から西進してきたのち北上する薩摩街道と、同街道から西へ分岐する柳川街道沿いに続く。北は中山なかやま(現三橋町)、南西は五拾町ごじつちよう(現同上)。村名は中世の瀬高上庄に由来する。文禄四年(一五九五)の知行方目録には「せたか村」とあり、村・中山村(現三橋町)と合せて高一千五二〇石余。慶長二年(一五九七)の柳川領村高附帳(立花家文書)に瀬高上庄とあり、「畠斗」と記される。元和七年(一六二一)の郡村帳には瀬高上庄村とあり、玄蕃高一千二五五石余・新田高一石余・祇園(八坂神社)領玄蕃高三七石余、小物成は山手米一〇石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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