牛久宿
うしくじゆく
[現在地名]牛久町牛久
水戸街道の宿で、若柴宿(現龍ケ崎市)に一里、荒川沖宿(現土浦市)に一里(諸国道中記)。天保一二年(一八四一)頃は上下の惣門内に本陣はじめ、旅籠一五軒を含む一二四軒の家並があった(牛久町史)。常備の継人足は五〇人、宿継馬五〇疋と定められていたが、宿場の疲弊に伴って減少し、「文化十二年日記」(飯島家文書)に
<資料は省略されています>
とある。文化元年(一八〇四)の当宿の人別は男女四九七(同書)。
定助郷村は田宮村・猪子村など七村で、交通量の増大した天明八年(一七八八)には小坂村など一九村が加助郷村に割当てられた(「助郷被仰付御請書写」飯島家文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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