牛久村(読み)うしくむら

日本歴史地名大系 「牛久村」の解説

牛久村
うしくむら

[現在地名]大平町牛久

土与どよ村の北東に位置し、北は沼和田ぬまわだ(現栃木市)南東横堀よこぼり村と接する。栃木宿と野木のぎ宿を結ぶ脇往還南北に通る。史料上は牛来とも記される。法華品々観心聞書(日光天海蔵)の奥書に、明徳三年(一三九二)閏一〇月一四日円通えんつう(現栃木市)の等海が「西御庄西牛久談所」でこれを書写したとある。このほか天台伝南岳心要抄(日光天海蔵)の奥書にも享徳六年(長禄元年、一四五七)に西御庄牛久で円通寺の幸海が写したとみえる。慶長八年(一六〇三)多賀谷重経の旧臣野口豊前の戦功覚書写(常総遺文)に「うしゆく」「うしゆく東輪寺」とある。


牛久村
うしくむら

[現在地名]市原市牛久

養老ようろう川を挟んで皆吉みなよし村の北東に位置する。文明二年(一四七〇)銘の武蔵型板碑がある。北条方の三谷氏に攻略されたという牛久城の跡地天王台てんのうだいとも大塚おおつかともいうが未詳。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一八七石で、幕末まで同様。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数一九八で、旗本水野領。幕末まで同氏領。天保一五年(一八四四)川在かわざい村と内田うちだ郷の間にある入会野をめぐって争論、嘉永二年(一八四九)入会境を定めて内済している(長峰家文書)


牛久村
うしくむら

[現在地名]牛久町牛久

水戸街道沿いにあり、北は田宮たくう村。中世は小田氏の一族岡見氏が支配し(新編常陸国誌)、戦国末期には城中じようちゆう村に牛久城を築いている。同氏は小田原北条氏と結んで、一時は下総国相馬郡にまで勢力を伸ばしたが、天正末期に下妻の多賀谷氏の侵攻によって滅亡した(多賀谷旧記)。次いで領主は由良氏となるが、慶長一六年(一六一一)に所領を収公される。寛永六年(一六二九)に牛久藩領となり、「寛文朱印留」に「牛久町村屋敷小出・野銭高ニ入」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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