日本大百科全書(ニッポニカ) 「犬目宿兵助」の意味・わかりやすい解説
犬目宿兵助
いぬめじゅくひょうすけ
(1797―1867)
江戸後期の義民。甲斐(かい)国(山梨県)都留(つる)郡の扇山(おうぎやま)の山腹にかかる甲州街道犬目宿の農民、水越(みずこし)姓水田屋市郎右衛門(みずたやいちろうえもん)の子。「甲州一揆(いっき)」の指導層の一人で、読み・書き・算術に長じ、下和田(しもわだ)村治左衛門(じざえもん)とともに、農民層の組織化、商人資本との交渉にあたる。1836年(天保7)8月22日、同国山梨郡熊野堂(くまのどう)村の小川奥右衛門方打毀(うちこわし)ののち出奔。武蔵(むさし)、上野(こうずけ)を経て北陸に出て、丹後(たんご)から瀬戸内の中国、四国、そして、畿内(きない)の各国を巡り、上総(かずさ)(千葉県)の木更津(きさらづ)に移り住んだ。40年代の末ころ帰郷、慶応(けいおう)3年2月23日死、71歳。宿内の宝勝寺に葬られる。法名「泰山瑞峰居士」。犬目宿の「本陣」岡部家は遠戚(えんせき)にあたり、兵助の「書置き」、「日記」、蔵書、財布などの遺筆、遺品を残す。
[小林利久]