甲州一揆(読み)こうしゅういっき

日本大百科全書(ニッポニカ) 「甲州一揆」の意味・わかりやすい解説

甲州一揆
こうしゅういっき

1836年(天保7)8月、甲斐(かい)国(山梨県)に起きた百姓一揆。当時、甲斐国騒立(さわぎだち)、甲州百姓騒立、のちに甲州騒動、天保(てんぽう)騒動、郡内(ぐんない)一揆、郡内騒動、その他さまざまの呼称でよばれた事件で、全国的にも最大規模のもの。甲斐30万石は山地86%の天領で、ことに生産力の低い郡内地方の農民は、郡内絹の賃織り養蚕、馬方、棒手(ぼて)(行商)、日雇い、山稼ぎなどによる収入で暮らし、米穀類は主として国中(くになか)地方(甲府盆地地域)から求めていた。ところが1830年代の初めから続いた天候不順による凶作は、米穀類の暴騰を招き、不況による低賃金のなかで重税の取り立てのみ厳しく、病人餓死、投身、家出、乞食(こじき)、盗賊が続出した。国中地方の米穀商は、江戸の米価暴騰に対してとられた幕府の江戸廻米(かいまい)令に乗じて、米の買いだめ、売り惜しみを行い、郡内へ「穀留(こくどめ)」を行った。農民は、国中の米穀商との交渉や、代官所への嘆願を繰り返したが、まったく効果がなかったので、ついに米穀商に対して米の押買(おしが)いを目的とした一揆を起こした。これとは別に郡内領谷村(やむら)(都留(つる)市)付近の農民は、8月17日の夜から翌日の明け方にかけて谷村の米穀商、両替屋など7軒を打毀(うちこわ)した。甲州街道沿いの農民は同月20日、白野宿(大月市)のはずれの天神坂林で決起大会を開き、下和田村(大月市)の治左衛門(じざえもん)、犬目宿(上野原市)の兵助(ひょうすけ)らを頭取に選び、その行動綱領を定めた。郡内の一揆衆は21日の早暁、笹子(ささご)峠を越えて国中地方に入ると同地方の無数の農民が加わり、無原則的な打毀を続けた。治左衛門は当初の計画から甚だしく逸脱してしまったので歌田村(山梨市)から、そのほかの郡内衆は、22日、熊野堂村(笛吹(ふえふき)市春日居(かすがい)町)の奥右衛門方の打毀を見切りに郡内へ引き揚げた。国中の一揆衆は、打毀の先々で貧農層のほか、村役人層をはじめ日雇人、無宿者、浪人神主、修験者、被差別部落民も加わって、武装された甲府勤番士や、代官所の役人らと交戦してこれを退けて打毀を続けた。一揆衆の数は数万と概算され、その行動区域は国中地方中心部の全域にわたり、甲州街道筋では信濃(しなの)(長野県)境までに及んだ。打毀の対象は米穀商、質屋、酒屋、太物(ふともの)屋、大地主、豪農などで、それらのうちで金品、酒食、武器などを提供してその難を免れた者も多かったが、打毀された村数118、家数319に及んだ。幕府は信濃の高島藩、高遠(たかとお)藩、および駿河(するが)(静岡県)の沼津藩よりの出兵約900をもって鎮圧を図った。この事件は、いち早く江戸の瓦版(かわらばん)によって各地に伝えられ、水戸(みと)藩主徳川斉昭(なりあき)はこれを契機に、幕政改革を促す建白書をしたため、大坂の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)は、この事件から強い衝撃を受けた。

 江戸幕府は3か年に及ぶ調査と、政治工作ののち、1838年(天保9)5月、下和田村の治左衛門(36年11月牢死(ろうし))ほか298人の処罰をしたのみで、各村々から村割の過料銭を、富裕層から冥加(みょうが)金を取り立て、極貧者の救済金にあて、あわせて両3年間の貢租の大幅減免などをもって事件の決着とした。

[小林利久]

『『大月市史 通史編・史料編』(1978・大月市)』『藤村潤一郎「天保甲州郡内騒動の諸断面」(『史料館研究紀要』2所収・1969・文部省史料館)』『安藤正人著『甲州天保一揆の展開と背景』(『天保期の人民闘争と社会変革 上巻』所収・1980・校倉書房)』

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