獅子ヶ城跡(読み)ししがじようあと

日本歴史地名大系 「獅子ヶ城跡」の解説

獅子ヶ城跡
ししがじようあと

[現在地名]厳木町大字岩屋

岩屋いわや村と波瀬なみせ村の境、標高一九六メートルの白山しろやま(獅子ヶ山)山頂にある。松浦党の分脈源(峯)披が治承―文治年間(一一七七―九〇)にかけて築城したと伝えられる。城の周辺は山腹が岩壁をなし天険山城である。また付近の村々には居館や侍屋敷があったとされ、披の墓所は現浪瀬なみせの字向前むこうまえにある。

披のあとは子孫平戸ひらど(現長崎県)に去り、廃城となったが、約三五〇年たった天文一四年(一五四五)大川野おおかわの(現伊万里市)日在ひあり城主鶴田直の弟鶴田越前守前が旧城を修復し居城したと秀島鼓渓覚書に記す。しかし、天文一三年には竜造寺氏は鶴田前を獅子ヶ城に攻めており、前の獅子ヶ城への進出は、それ以前と考えられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の獅子ヶ城跡の言及

【佐和田[町]】より

…国中(くになか)平野の西端部と大佐渡山地の南西斜面を占め,真野(まの)湾に面する。中心市街は石田川河口近くの河原田(かわはらだ)で,中世は雑太(さわた)郡に属し,佐渡の代官,本間氏の居城獅子ヶ城跡がある。島内のバス交通の要地にあたり,商業の町として古くから栄えている。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」