田中敬助(読み)タナカ ケイスケ

20世紀日本人名事典 「田中敬助」の解説

田中 敬助
タナカ ケイスケ

明治〜昭和期の医師 横手病院長。



生年
文久2年6月9日(1862年)

没年
昭和20(1945)年1月22日

出生地
出羽国(秋田県湯沢市)

学歴〔年〕
帝国大学医学部卒

学位〔年〕
医学博士〔大正2年〕

経歴
帝国大学医学部で学んだあと帰郷し、秋田県雄勝郡で診療に当たる。その傍ら、東北の風土病として恐れられたツツガムシ病研究を進め、明治25年の「日本洪水熱病原研究第一回報告」を皮切りに数多くの論文執筆。32年にはツツガムシ病がケダニによって媒介されることを発見し、その成果を39年「日本のケダニ病について」としてドイツの伝染病学雑誌に発表、大絶賛された。横手病院長として診療に忙殺されたが、研究活動を廃することはなく、大正2年医学博士となった。しかし、晩年白内障に冒され、昭和15年に自宅の研究所を閉鎖した。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田中敬助」の解説

田中敬助 たなか-けいすけ

1862-1945 明治-昭和時代前期の医師。
文久2年6月9日生まれ。郷里秋田県の雄勝病院長となり,風土病のツツガムシ病を研究。明治32年ツツガムシの幼虫が媒介することをつきとめた。昭和20年1月22日死去。84歳。帝国大学卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の田中敬助の言及

【恙虫病】より

…【金沢 知博】
【疾病史】
 秋田,山形,新潟3県の日本海にそそぐ雄物川,最上川,阿賀野川,信濃川の中・下流地帯では,昔から夏になると,川沿いの草原に入った農民や旅人の間に,突然高熱を発し,体中に赤い発疹が現れ,譫妄(せんもう)状態になり,10人に4~5人は14~15日から20日のうちに死んでいくふしぎな熱病があったが,これが恙虫病であった。ベルツは〈日本洪水熱〉と名づけたが,ツツガムシと呼ばれるダニの幼虫が媒介することは,1899年に秋田の医師田中敬助によって確かめられ,その病原体がリケッチアであることは昭和に入って発見された。山形県南部の最上川中流には,江戸時代から〈病河原〉と呼ばれた河原があり,ケダニといわれた毒虫の病毒で命を失う者が多かったが,これも恙虫病であった。…

※「田中敬助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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