日本大百科全書(ニッポニカ) 「田儛」の意味・わかりやすい解説
田儛
たまい
古代の宮廷儀礼の歌舞。「田舞」の史上の初見は、天智(てんじ)天皇10年(671)5月5日の節会(せちえ)の宴遊に、皇太子が奏(つかえまつ)ったという『日本書紀』の記事である。続く天武(てんむ)・持統(じとう)紀には田儛(たまい)の記事はないが、奈良朝に入ると、天平(てんぴょう)14年(742)聖武(しょうむ)天皇の正月の踏歌節会に「五節田儛」、翌年の5月5日の端午(たんご)の節会に皇太子が「五節」を舞ったと、『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されている。701年(大宝1)の大宝令(たいほうりょう)の制定とともに雅楽寮(ががくりょう)が設置され、「田儛師」を置いて教習した。端午の節会ほか宮廷儀礼に用いられ、五節田儛から女性のみで舞う「五節舞(ごせちのまい)」が分化する。平安朝に入るころになると、東の倭舞(やまとまい)の制定とともに、田儛が西の河内(かわち)舞の意味に考えられ、祖先が河内出身の大官僚多治比(たじひ)氏の専管となって、後世に伝承された。しかし、江戸後期ごろからは行われなくなったようである。また、田儛は平安初期に伊勢(いせ)皇大神宮の2月初子(はつね)の日の種下(たねおろ)し儀礼にも用いられており、種おろし祭りに由来したものであろう。
[新井恒易]