日本大百科全書(ニッポニカ) 「五節舞」の意味・わかりやすい解説
五節舞
ごせちのまい
宮廷儀礼に用いる楽舞の一つ。女舞。伝説によると、天武(てんむ)天皇が吉野宮(よしののみや)で弾琴のとき、天女(てんにょ)が出現して袖(そで)を五度翻して舞ったのが始まりという。初見は聖武(しょうむ)天皇の天平(てんぴょう)14年(742)に「五節田舞(ごせちのたまい)」とみえ、その翌年には阿倍(あべ)内親王(後の孝謙(こうけん)天皇)が自ら五節舞を舞ったという古い記録もある。東大寺大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)(752)にも久米舞(くめまい)などの楽舞とともに五節舞が舞われており、もうすこし時代が下ると五節舞と田舞とは分離したが、五節舞はもともとは五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈願する農耕呪術(じゅじゅつ)的な田舞に発するといわれている。それが雅楽寮に組み込まれ教習されるようになって様式が整い、宮中の式楽として大嘗会(だいじょうえ)や新嘗会(しんじょうえ)において重要な位置を占めるようになった。11月中(なか)の丑(うし)の日には帳台(ちょうだい)の試(こころみ)、寅(とら)の日には御前(ごぜん)の試という舞姫天覧の儀があり、卯(う)の日の童女御覧の儀(この夜が新嘗会)の翌日辰(たつ)の日が豊明節会(とよのあかりのせちえ)となって、大歌所の大歌にあわせ五節舞が舞われた。初めから女舞とは限っていなかったようであるが、平安時代には明白に女舞となっており、舞姫は内教坊(ないきょうぼう)に所属している舞妓(ぶぎ)ではなく、貴族諸氏、受領(ずりょう)などの子女が選任されて、これにあたった。その人数も大嘗会には5人、新嘗会には4人と定まっていた。室町時代にはすでに衰微していた五節舞は、1466年(文正1)以降廃絶に至り、1753年(宝暦3)に再興されたが、現在伝わるものは大正天皇即位のおり新たに復活されたものである。
[高山 茂]