律令官制において治部省に管轄された役所。和訓は〈うたまいのつかさ〉,また〈うたのつかさ〉ともいう。日本在来の歌舞や,外来の歌舞・音楽の演奏・演舞と,後継者育成のための教習をつかさどる。頭・助・大允(じよう)・少允・大属(さかん)・少属各1人と使部20人の官人のほか,実技を教習する歌師4人,歌人40人,歌女100人,儛師4人,儛生100人,笛師2人,笛生6人,笛工8人の在来音楽関係や,外来音楽関係である唐楽師12人,唐楽生60人,高麗楽師4人,高麗楽生20人,百済楽師4人,百済楽生20人,新羅楽師4人,新羅楽生20人,伎楽師1人,伎楽生,腰鼓師2人,腰鼓生を擁する大寮で,楽戸が付属する。このうち〈師〉が教え,〈生〉はそれを習うもの。伎楽生・腰鼓生は,伎楽を家職とする楽戸から採用した。楽戸は品部で,奈良時代中ごろで,伎楽戸49戸,木登8戸,奈良笛吹9戸が大和国に存した。なお雅楽大属尾張浄足(平安初期の人か)によれば,日本在来の歌舞には,宮廷に伝来した五節舞などのほか,久米舞(大伴・佐伯両氏),楯臥舞(土師・文両氏)など,氏族の伝承したもの,筑紫諸県舞のごとく地方に伝来したものがあり,外来音楽にも,唐楽などのほかに度羅楽もあったという。しかし師・生ともに時代が下るにつれて縮減の傾向にあり,そのうえ,日本固有の楽は大歌所において,唐楽以下の外来の楽は楽所において,また女楽は内教坊において教習されるようになり,雅楽寮はその実体を失った。
→雅楽
執筆者:今江 広道
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宮廷の音楽・舞踊の教習をつかさどる国家機関。「うたまいのつかさ」「うたづかさ」「うたりょう」ともいう。中国漢代の太楽署、唐代の教坊に倣い、701年(大宝1)大宝律令(たいほうりつりょう)により治部省の一部門として制定された。当初は和楽・三韓楽(さんかんがく)・唐楽(とうがく)などの各分野に歌師・歌人、高麗(こま)楽師・高麗楽生、唐楽師・唐楽生を置き、250余名からなる和楽を中心とした大規模なものであったが、漸次縮小し、731年(天平3)には、いまのタイ国の音楽といわれる度羅楽(とらがく)が62名で最多、和楽は28名で最少となり、809年(大同4)には平安京造営や天災のあおりで総勢40名にまで削減された。
9世紀初めには和楽は大歌所(おおうたどころ)で、女子は内(ない)教坊で学ばれることになり、雅楽寮は男子の外来楽教習所となる。948年(天暦2)には内裏(だいり)内の雅楽寮楽人(がくにん)の詰所が正式に楽所(がくそ)と称されて発足し、以後、雅楽寮は有名無実のまま存続するが、1870年(明治3)太政官(だじょうかん)に置かれた雅楽局に引き継がれて、今日の宮内庁楽部に至っている。
[橋本曜子]
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…なお雅楽大属尾張浄足(平安初期の人か)によれば,日本在来の歌舞には,宮廷に伝来した五節舞などのほか,久米舞(大伴・佐伯両氏),楯臥舞(土師・文両氏)など,氏族の伝承したもの,筑紫諸県舞のごとく地方に伝来したものがあり,外来音楽にも,唐楽などのほかに度羅楽もあったという。しかし師・生ともに時代が下るにつれて縮減の傾向にあり,そのうえ,日本固有の楽は大歌所において,唐楽以下の外来の楽は楽所において,また女楽は内教坊において教習されるようになり,雅楽寮はその実体を失った。雅楽【今江 広道】。…
…なお雅楽大属尾張浄足(平安初期の人か)によれば,日本在来の歌舞には,宮廷に伝来した五節舞などのほか,久米舞(大伴・佐伯両氏),楯臥舞(土師・文両氏)など,氏族の伝承したもの,筑紫諸県舞のごとく地方に伝来したものがあり,外来音楽にも,唐楽などのほかに度羅楽もあったという。しかし師・生ともに時代が下るにつれて縮減の傾向にあり,そのうえ,日本固有の楽は大歌所において,唐楽以下の外来の楽は楽所において,また女楽は内教坊において教習されるようになり,雅楽寮はその実体を失った。雅楽【今江 広道】。…
…こうして,17,18世紀のイタリアのおもだった作曲家はほとんどすべてこれらの機関の生徒や先生だったのである。日本では雅楽寮(701)が初めての組織的・意図的な音楽・舞踊の教習を行ったが,その対象は特定の家系に属する子弟に限定されていた。 こうした外的条件(親がいないこと,特定の家系に属することなど)に関係なく,純粋に音楽の能力や意欲をもつ者に対して広く門戸を開いたのがフランスのパリ音楽院(1795)であり,当初から高度の専門教育機関を目指している。…
…一方676年(天武4)2月には国内十数ヵ国に対して〈よく歌う男女および侏儒伎人を選んで貢上せよ〉との詔勅があり,外国楽舞の摂取と並行して国内歌舞の中央集権化も進行していたということはみのがせない。
[令制と雅楽寮]
《日本書紀》持統1年(687)1月1日条に〈楽官奏楽〉と書かれており,役職としての楽人の存在が示唆されているが,その制度の詳細を知りうるのは701年(大宝1)の大宝令(散佚)と養老令とによってである。今,後者の職員令(しきいんりよう)をみると,雅楽寮は治部省に属する大寮,国風歌舞(くにぶりかぶ)ならびに外来楽舞の教習施設で,管理職から雑役まで総勢四百数十名という大規模なものであるが,実際に規定どおりの人員があてられたかは疑問である。…
…その名称は《正倉院文書》の764年(天平宝字8)の文書などに見えるが,法会のときの楽人の詰所を指す語らしい。しかし904年(延喜4)を初見とする醍醐朝のものは,雅楽寮楽人と区別して楽所楽人が見えるので,すでに常設のものであったことが知られる。ただこれも醍醐天皇が没するとともに廃されたらしく,村上天皇の948年(天暦2)に再置され,場所も内裏の桂芳坊があてられ,以後,明治維新に及んだ。…
※「雅楽寮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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