田北村(読み)たぎたむら

日本歴史地名大系 「田北村」の解説

田北村
たぎたむら

現直入町上田北・下田北と大分郡野津原のつはる今市いまいちを含む一帯に比定される中世の村。嘉禎二年(一二三六)三月一七日の大友寂秀(親秀)譲状(大友家文書録)に「豊後国田北村」とみえ、寂秀は父の豊前前司能直から相伝した田北村地頭職ほかを三男観音丸(親泰)に譲っている。親泰は田北村に土着し、田北氏を名乗った(「大友田北氏系図」田北武春本)。しかし豊後国弘安図田帳には、田北村を含む朽網くたみ郷地頭は朽網泰親(法名善心)とみえ、田北氏の地頭職はみえない。田北氏は朽網郷地頭職の下の小地頭であった可能性が考えられる。永仁元年(一二九三)二月田北氏三代頼広が叔母の夫である三浦四郎(頼清)を殺害した科で同年一一月所領を没収され、跡地大友頼泰が管掌したという(「田北氏系図」大友義一蔵本)。しかし建武三年(一三三六)頃までには田北氏に還付され、貞和二年(一三四六)には田北氏(頼広の子親広か)が田北村ほかを領していた(同年正月一四日「田北氏所領文書目録」田北一六文書)。観応三年(一三五二)九月二〇日、田北泰直は父大炊又太郎入道道賢(親広)から譲られた田北村地頭職ほかを嫡子の孫太郎氏直に譲与した(「田北泰直譲状写」同文書)。なお応永二一年(一四一四)九月八日の直入郷段銭結解土代(志賀文書)には「田北名」とみえ、七町大(二四〇歩)であった。しかし田北村と同一のものかは不明。文明一八年(一四八六)三月六日大友政親は田北村惣領分田北駿河守親載跡を没収し、賀来かく(現大分市柞原八幡宮)に寄進している(「大友政親寄進状」柞原八幡宮文書)。なお田北村に大友政親の代に賀来社が勧請された(永正五年一二月二三日「大友親治寄進状」同文書)。明応二年(一四九三)から同五年頃大友材親(義右)は田北村の内城後じようご分などを田北将監(繁胤)に与えている(八月六日「大友材親知行預ケ状写」田北憲明文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、和歌山県串本町の民間発射場「スペースポート紀伊」から打ち上げる。同社は契約から打ち上げまでの期間で世界最短を目指すとし、将来的には...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android