市村(読み)いちむら

精選版 日本国語大辞典 「市村」の意味・読み・例文・類語

いちむら【市村】

[一] 姓氏の一つ。
[二] 歌舞伎俳優の姓の一つ。

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デジタル大辞泉 「市村」の意味・読み・例文・類語

いちむら【市村】

姓氏の一。
[補説]「市村」姓の人物
市村羽左衛門いちむらうざえもん
市村瓚次郎いちむらさんじろう

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日本歴史地名大系 「市村」の解説

市村
いちむら

[現在地名]三原町市市いちいち八木天野寺内やぎあまのじない神代社家じんだいしやけ

三条さんじよ村の東にあり、諭鶴羽ゆづるは(現三原川)によってつくられた扇状地の扇央に位置する。南部を南西から北東に福良ふくら街道が通り、西端をほぼ南北になか街道が通る。北の十一じゆういつしよ村と西の三条村両村にまたがる地域は淡路国府所在地の有力比定地で、村名は国府の市に由来するという説もある(常磐草)。室町期のものとみられる年月日欠の八幡宮置米寄進目録(護国寺文書)に、賀集かしゆう八幡宮(現南淡町)に置米五升を寄進したとして記される「吊」の新左衛門は、「市」の新左衛門であろうか。

寛永四年(一六二七)国府市検地帳(三原町教育委員会蔵)では反別三二町四反余・高三九五石余。当村は本村ほんむらと南東に接する福長ふくなが、飛地の上中原うえなかばら(中原)宮地原みやじばらの四傍示からなり(味地草)、すべてもと独立村であった。正保国絵図では市村は高二〇七石余、福長村は高一三〇石余、上中原村は高三〇石余。

市村
いちむら

[現在地名]庄原市市町・掛田かけだ

西城さいじよう川の南、恵蘇えそ郡南部に位置し、西は本郷ほんごう村、南は田原たわら村と接する。村域北部の字掛田は西城川に面するが、他の地域は山によって川と隔てられ、丘陵地の谷あいに耕地が分布する。掛田には大型の前方後円墳旧寺ふるでら古墳(全長六四メートル)があり、明神みようじん山と迫田さこだには古墳時代の大住居跡群がある。

中世にはじび庄南部に位置し、嘉暦年間(一三二六―二九)に地頭山内氏により田原村から分村されたという(芸藩通志)。南北朝後半期には地庄内に三日市・九日市などの市があったとみられるが、当村域にも多穂たほいち市場いちばなどの地名があり、村名もそれにちなんで生じたのであろう。山内氏は地名を姓とした庶子家を荘内各地に置き、支配の強化に努めたが、山内首藤氏系図によると、庶子家の一つに懸田氏があり、村内掛田にも一族を配したとみられる。

市村
いちむら

[現在地名]江津市松川町市村まつかわちよういちむら

那賀郡のうち江川下流部右岸に位置し、都治つち川が江川に合流する氾濫原上に立地し、古くは河上かわのぼり郷といわれた。東は上津井かんづい村、南は長良ながら村、西は江川を隔てて南川上みなみかわのぼり村。古来水陸交通の要地として戦略上重視された地で、嘉元年間(一三〇三―〇六)中原房隆が河上郷地頭として近江国から来住し、河上孫二郎を称して松山まつやま城に入ったといわれる。以来佐々木氏(第二代河上氏)・福屋氏(第三代河上氏)を経て毛利氏の治下に入った。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原戦直後の九月二五日徳川家康は石見銀山確保上の要地七ヵ村に三ヵ条の禁制を発した。そのなかに河上村の名で当村が入っている。中世末期頃から市場も開かれたようで、村名はそれを受けている。近世期を通じて川登かわのぼり口番所が置かれた。番所維持のため当村のほか長良村・上津井村・畑田はただ村・上河戸かみかわど村・下河戸村八神やかみ村・太田おおた村の八ヵ村が添村に指定され、日用経費や修復費用などを負担した(「石見国郡中入用其外取計定書」重富家文書)

市村
いちむら

[現在地名]野津町野津市のついち 野津市

現野津町の北寄り中央部にあり、蛇行しながら北流する野津川と、西流してきた支流王子おうじ川合流点東方に位置する。臼杵うすきおか城路が北東から南西へ通り、道沿いに町並が形成される。交通の要地として「豊後国志」に古代には駅(野津駅)があったと記される。もとは北町村・南町村の二村であったという(桜翁雑録)。野津市村とも称された(旧高旧領取調帳)。一五七九年(天正七年)のカリオン年次書簡(日本年報)には野津の市について「この市は、ただ一つの場所でなく、多数の村落をも合わせております」と記し、この地方の人口を二万人以上と述べている。文禄二年(一五九三)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には市村が寺小路てらこうじ村など三ヵ村と一括された一冊があり、村位は上。田方一三石余・畠方(屋敷共)二六石余。

市村
いちむら

[現在地名]河内長野市市町・汐の宮しおのみや町・くすのきひがしくすのき西にし千代田南ちよだみなみ町・まつ丘東おかひがし

現河内長野市の北東端にあり、東は石川を挟んで横山よこやま(現富田林市)、北は錦部にしごり(現同上)、西は市村新田、南は向野むかいの村。集落の東を東高野街道が南北に通る。市村新田の西に飛地がある。

文禄三年(一五九四)一一月二八日の市村免状(田中善人家文書)に「御検地帳面之高頭ニ付而、五ツ物成ニ被成御究候」とあり、租率は五割であった。河内国では近世の最も早い時期の免定である。

市村
いちむら

[現在地名]福山市蔵王ざおう

現福山市街地の東北をかぎる蔵王山のさらに断層の残丘がつづく東北方、東深津ひがしふかつの北背の山麓に集落が展開する。地名は古代の「深津市」に由来すると考えられる。「日本霊異記」下巻第二七(髑髏の目の穴の笋を掲き脱ちて、祈ひて霊しき表を示す縁)に、宝亀九年(七七八)一二月下旬のこと、品知ほむちの牧に働く男が正月の物を買いに深津市に赴く話があり、当時暮れの市が立って、市には遠く讃岐の人も来ていたことが書かれている。当地は古くは海が深く湾入し、現在の八幡社の麓辺りは良港で、ここから備後国衙(跡地は現府中市)にゆく道が山陽道につながり、いわゆる国府津となっていたのであろう。

市村
いちむら

[現在地名]住用村市・青久あおく

現住用村の南東部に位置し、集落は住用湾に臨む。おお川が注ぐ内海は市湊と称され、その先の海上にはトビラ島がみえ、その東手にはとノ崎があり、対岸はぐすくノ鼻となっている。東に市崎があり、その根元は大浜おおはまと称し、南西には金川かねんご(五二八メートル)がある。住用すむゆう間切のうち。正保琉球国絵図に村名の記載はないが、「はとの崎」が記されるほか、東方の小半島には「おかミ崎」「大瀬」がみえる。享保年間(一七一六―三六)龍郷たじご(現龍郷町)の田畑佐文仁によって干潟の干拓が行われたとされ(奄美大島史)、地内に中里のほか金久田・作田・塩田などの地名がある。

市村
いちむら

[現在地名]新田町市・市野倉いちのくら

南は市野井いちのい村、西は嘉祢かね村。西境を南北に銅山あかがね街道、その東を河岸かし街道(寛文以前の銅山街道か)が走り、村内を東西に足利街道が通る。後者に沿って小規模な宿が形成され、宿通しゆくどおりの呼称が残る。寛文年間(一六六一―七三)笠懸野かさかけの開発により成立した新田村。当初は市野井新田とよばれた。元禄郷帳に村名がみえ、幕府領、江戸後期の御改革組合村高帳では上総貝淵藩(のち請西藩)領と幕府領の二給。寛政元年(一七八九)の村明細帳(栗原文書)によれば新畑一八町五反余・芝畑三〇町二反余・屋敷二〇町五反余・風除林五町八反余。

市村
いちむら

[現在地名]御調町市

大田おおた村の東に位置し、御調川南岸を主要村域とする。南部には山地が広がり、御調川の支流諸原もろはら川が北流。土地は高く、水がかりは不便だという。石見路(赤名越)が南のはた(現尾道市)から諸原川沿いに村内を北上。当村は尾道の次の宿駅で、街村を形成、在郷町として繁栄した。「芸藩通志」によると市村宿は伝馬一〇匹を置き、南は尾道宿、北は甲山こうざん宿(現世羅郡甲山町)に至る各三里の区間を受持った。また「和名抄」御調郡者度いつと郷・「延喜式」者度駅の地に比定する説が有力である。

市村
いちむら

[現在地名]池田町市

河内こうち川が魚見うおみ川に注ぐ舌状台地に開けた村。地名はかつて市が開かれたことに由来すると思われる。常安つねやす村の西にある。大永四年(一五二四)の某寄進状(上島家文書)に「千代丸番市村百姓中」とみえる。上島家文書のうちに同年二月のこととして市村と「池田上ノ庄千代番之内小原村と相論の事云々」と記される。しかしこの「小原村」の所在は不明。

市村
いちむら

[現在地名]堺市神石市之かみいしいちの町・上野芝うえのしば町八丁

踞尾つくのお村の北西部に接し、村内を石津いしづ川が流れ、西側を小栗おぐり街道が通る。集落は石津川沿いにある。大鳥郡に属し、古くは七日市なのかいち村と称したという(大阪府全志)。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳に村名がみえる。石高は踞尾村内の「堺寺社領」一千一一一石を除く同村分と合せて記され四六〇石余。慶安四年(一六五一)和泉国郷村高辻帳では一村で記され一五一石余とある。延宝検地では一五三石余(中江家文書)

市村
いちむら

[現在地名]大分市さかいち

丹生にゆう川河口右岸のデルタ上に位置し、対岸のさと村から伊予街道が渡河する。「肥後国誌」によると里俗は坂ノ市村と称し、「セウクワ村・町村・浜村・古屋敷村」などの小村がある。地名は当地の萬弘まんこう寺の市に由来すると考えられる。江戸時代を通じて熊本藩領で関手永のうち。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高六八七石余。

市村
いちむら

[現在地名]朝地町市万田いちまんだ あげまち

たち村の南東、平井ひらい川およびその支流市万田いちまんだ川流域にある。村名は中世一万田氏の居館近くに設けられた市に由来すると推定され(あさじ地名考)、「豊後国志」は「市万田市」をあげ、あるいは古駅かと記している。正保郷帳に市村とみえ、田高七一石余・畑高二三一石余、一万田いちまんだ郷に属し、日損所と注記される。安永七年(一七七八)には市万田組に属し、同組大庄屋笠蔵の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

市村
いちむら

[現在地名]大分市市

七瀬ななせ川左岸に位置し、肥後街道が南西の口戸くちど村から当村に入り東方に向かう。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に市村とみえ高五三一石余、市村組に所属。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば本高三三六石余・出来高二斗余、田高二五六石余・畑高八〇石余。正保郷帳では北側の世利せり村を含んで高五三一石余、うち田方四〇二石余・畑方一二九石余、稙田わさだ庄に所属。

市村
いちむら

[現在地名]大分市中戸次なかへつぎ 戸次本町へつぎほんまち

川床かわとこ村の南東、大野川右岸に位置し日向道が通る。帆足氏系図抄(帆足市太文書)によると、当村庄屋の帆足氏は天正一四年(一五八六)薩摩軍伊集院勢との合戦後、大友氏に属し当地に居住したという。江戸時代を通じて臼杵藩領で、慶長一一年(一六〇六)の惣御高頭御帳に村名がみえ高三八〇石余、楠木生村組。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳によれば田高六石余・畑高四二七石余。正保郷帳では佐柳さなぎ村を含んで高八〇三石余、うち田高一四七石余・畑高六五五石余、戸次庄に所属。元禄郷帳によると高四三四石余。

市村
いちむら

[現在地名]小諸市市村

残丘を点々と残す浅間火山泥流地帯にあり、耳取みみとり村・森山もりやま村・和田わだ村、長土呂ながとろ村・市村新田いちむらしんでん(現佐久市)などに接する。

村名は中世大井おおい庄の市場にかかわるとも、古牧の馬市場の所在から出るともいわれている。

文献上では嘉暦四年(一三二九)の鎌倉幕府下知状案(守矢文書)に「南市村」とあるのが初出で、以後天正七年(一五七九)の上諏訪造宮帳に「市村之郷 正物仁貫四百文 代官市村三郎衛門尉縫殿助」とあるなど、独立した郷をなしていたことが知られる。

近世当初は小諸領、天和二年(一六八二)幕府領となり、正徳元年(一七一一)より岩村田いわむらだ領となる。

市村
いちむら

[現在地名]久住町仏原ほとけのはる

石田いしだ村の西、市川上流域左岸に位置する。正保郷帳に村名がみえ、朽網くたみ郷に属し、田高三六〇石余・畑高二〇四石余、水損所とある。元禄見稲簿には当村の内として石田村を記す。当村枝村の小竹こたけ村は「豊後国志」に村名がみえ、江戸時代末頃に村立てされたと思われる。旧高旧領取調帳では市村は高二九二石余、小竹村は高八四石余。安永七年(一七七八)には仏原組に属し、石田村小庄屋支配であった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

市村
いちむら

[現在地名]愛知川町市

愛知川村・中宿なかじゆく村の東に位置する。中世から愛知川南市が五日市として栄え、呉服座があった(年月日未詳「小幡商人申状案」今堀日吉神社文書)。村域北西の藪の中に土塁・堀と思われる遺構があり、在地土豪市村氏の館跡の一部と推定される。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ、高一千一四四石余。文久二年(一八六二)上知。

元禄八年大洞弁天寄進帳によれば、男二二三・女一九六、寺社方男二・女五。真宗大谷派願宗がんしゆう寺があり、天正年中(一五七三―九二)の開基と伝え、貞享三年(一六八六)に木仏と寺号を許可された。

市村
いちむら

[現在地名]加西市市村町

上野うえの村の南、黒駒くろこま村の西に位置し、八千種やちくさ山系の尾根の東麓に立地する。中世の播磨国衙別納一〇ヵ所のうち市別符の遺称地とする説がある。文禄四年(一五九五)八月一七日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に市村とみえ、木下家定は同村の七〇石・一五石・五石余などを宛行われている。慶長六年(一六〇一)一一月三日、佐藤少兵衛は池田輝政から市村内四一石余など都合八〇〇石を宛行われている(「佐藤長樹家譜」鳥取県立博物館蔵)

市村
いちむら

[現在地名]長野市若里わかさと 南市みなみいち北市きたいち

さい川の北岸にあり、北国脇往還ほつこくわきおうかん市村渡場のあった所。東は栗田くりた村、西は荒木あらき村と境し、南は犀川にのぞみ、北は栗田村と境する。村名は慶長七年(一六〇二)の川中島四郡検地打立之帳(小柳文書)に「四百三拾六石壱斗五升六合 市村」とあるのを初見とし、南市・北市の二集落からなる。

「兵範記」の保元二年(一一五七)三月二九日条に、散位平正弘の所領市村郷を高田たかだ郷などとともに没官して後院領にしたことがみえる。

市村
いちむら

[現在地名]朝日町市

天王てんのう川左岸にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では田中たなか七郷に含まれ、正保郷帳によると田方五六石余・畠方二二石余。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領となるが元禄一〇年(一六九七)高森藩領、享保五年(一七二〇)鯖江藩領となる。

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