日本歴史地名大系 の解説
田地ヶ岡館跡・田地ヶ岡遺跡
でんちがおかたてあと・でんちがおかいせき
田地ヶ岡館跡は中世の館跡で、寛文七年(一六六七)の「奥相茶話記」には田地ヶ岡国司の館と記され、「相生集」や相応寺記(大玉村史)は殿地ヶ岡と書く。「奥相茶話記」は「会津よりは沼尻湯本に懸て岳を廻り猿ケ鼻より出て田地ケ岡国司の館に懸り兵糧を送続」と、天正一三年(一五八五)から一四年頃の二本松城の様子を述べている。これとほぼ同じ記述は「政宗記」や「山口道斎物語」にもみえるが、田地ヶ岡の名は記されていない。寛文一二年の円東寺縁起断簡(円東寺文書)に「田地ケ岡へ御帰城」、元禄九年(一六九六)の円東寺書上(同文書)に「田地ケ岡城主」、同一二年の安達太良山縁起(相応寺文書)に「築城郭於田地岡」と記され、いずれも安達太郎が住むとしている。「積達古館弁」「積達館基考」「松藩捜古」「相生集」などは、いずれも確かではないとして田地ヶ岡と安達太郎の関係を否定している。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報