日本歴史地名大系 「塩沢村」の解説
塩沢村
しおざわむら
慶長三年(一五九八)上杉景勝の会津移封後は
塩沢村
しおざわむら
塩沢村
しおざわむら
- 栃木県:小山市
- 塩沢村
慶長年間(一五九六―一六一五)小山藩領、元和五年(一六一九)下総古河藩領となり、寛文四年(一六六四)の検地帳(吉光寺秀一文書)が残る。
塩沢村
しおざわむら
塩沢村
しおざわむら
南牧川から北に分岐した谷間に位置し、東は
塩沢村
しおざわむら
- 長野県:茅野市
- 塩沢村
天正一八年(一五九〇)、日根野高吉による検地の際の塩沢検地野帳(塩沢共有)が村名の初見である。
「諏訪郡諸村並旧蹟年代記」に「往古塩沢
塩沢村
しおざわむら
- 愛知県:新城市
- 塩沢村
塩沢村
しおざわむら
塩沢村
しおざわむら
塩沢村
しおざわむら
北境は
塩沢村
しおざわむら
元和八年(一六二二)九一石余(「佐久郡高書上帳」柳沢文書)に過ぎない村高は、寛文一〇年(一六七〇)には
塩沢村
しおざわむら
塩沢村
しおざわむら
南部六郷の一つで、北は一〇町を隔てて南部村(甲斐国志)。年未詳一二月一三日の秋山半九郎書状(朝夷一郎家文書)では、南部宿の伝馬につき「大和塩沢」を加えて勤めるよう命じられている。慶長古高帳では高八一石余、幕府領。寛文一〇年(一六七〇)の検地帳(県立図書館蔵)では上田三町三反余・中田一町三反余・下田九反余・下々田八反余・山田八畝歩で田地計六町五反余、上畑二町余・中畑一町六反余・下畑三町八反余・下々畑五町二反余・山畑三町四反余・山下畑三町二反余・屋敷四反余で畑屋敷計二〇町余、総反別二六町五反余・高一三五石余、屋敷数四三。その後再検地が実施され、延宝五年(一六七七)の検地帳(同館蔵)では山畑などが苅立畑二町四反余に修正。
塩沢村
しおざわむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報