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二本松城 にほんまつじょう

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日本の城がわかる事典の解説

にほんまつじょう【二本松城】

福島県二本松市にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。二本松市街中心部の北に位置する白旗が峰(標高345m)に築かれた梯郭式の城郭である。戦国大名の二本松氏の居城。南北朝時代(室町時代初期)の1341年(暦応4/興国2)、室町幕府の奥州探題だった畠山高国がこの地に入部し、4代の畠山満泰が1414年(応永21)あるいは嘉吉年間(1441~43年)に同城を築城した。このとき、畠山氏は二本松氏に改姓した。1585年(天正13)、二本松城は伊達政宗(まさむね)に攻められて苦境に立ち、政宗の父・輝宗に降伏を申し出て和議が成立。輝宗のもとを訪れた城主の二本松義継は輝宗を拉致したため、政宗が父輝宗ともども義継を射殺するという事件(粟之巣の変)が起こっている。義継の死後、二本松勢は子の国王丸(二本松義綱)を継嗣に立てて二本松城に籠城し、政宗の猛攻に耐えたが、翌年8月、義綱は火を放って二本松城は落城。二本松氏は滅亡した。政宗は片倉景綱、次いで伊達成実を城代として入城させたが、1590年(天正18)の豊臣秀吉の奥州仕置により、若松城(会津若松市)に入った蒲生氏郷(がもううじさと)の支城となった。次いで、会津に国替えになった上杉景勝の支城となり、さらに関ヶ原の戦いの後には、再び蒲生氏郷の子の秀行の支城となった。その後、加藤氏を経て、小峰城(白河市)の丹羽長秀の孫、光重が二本松藩10万700石の藩主として入城。以後、幕末まで丹羽氏が藩主をつとめた。光重は藩庁としてふさわしい城への改修に着手し、本丸石垣や3重の天守が建設された。1868年(慶応4)の戊辰戦争では二本松藩は奥羽越列藩同盟に加盟したことから新政府軍の攻撃を受けた。この城を舞台に、いわゆる会津戦争の前哨戦が行われ、わずか1日の戦闘で同城は落城。この戦いで城内の多くの建物を失った。その後、石高を半減されて藩の存続を許されたが、1872年(明治5)の廃城令により、残った建物も棄却された。こうして、二本松城はほとんどの建物を失ったが、1982年(昭和57)に箕輪門と附櫓(つけやぐら)、1993年(平成5)から1995年(平成7)にかけて本丸の修復・復元が行われ、天守台や本丸石垣が整備された。また、城の入口には二本松藩7代藩主、丹羽高寛藩政改革綱紀粛正の指針を刻ませた「旧二本松藩戒石銘碑」があり、国の史跡に指定されている。なお、城跡は毎年秋に開かれる二本松菊人形展で知られる県立霞ヶ城公園となっている。JR東北本線二本松駅から内城入口まで徒歩約20分。◇霞ヶ城、白旗城とも呼ばれる

出典|講談社
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デジタル大辞泉の解説

にほんまつ‐じょう〔‐ジヤウ〕【二本松城】

福島県中北部、二本松市にある城。応永21年(1414)畠山満泰により築城。江戸時代前期、白河から移封された陸奥(むつ)二本松藩主丹羽光重により整備された。小堀遠州作の名園が残る。城趾は県立公園となっている。霞ヶ城。

出典|小学館
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