田村梶子(読み)たむら・かじこ

朝日日本歴史人物事典 「田村梶子」の解説

田村梶子

没年:文久2.9.15(1862.11.6)
生年天明5(1785)
江戸後期,上野桐生の買次商田村林兵衛の妻。寺子屋松声堂を営む。田村家の長女として生まれ,17歳で幕府大奥に出仕,祐筆を務める。文化12(1815)年31歳で帰家し夫林兵衛を迎え,家業にしたがう。松声堂での教え子は100人以上を数え,女子が多かったが男子も教えた。手本として自筆のいろは歌,各種往来物,古今集の写しなどを与え,手習い,初歩和歌,和文,礼儀作法などを教授した。国学者橘守部より和歌を学び,桐生における有力門人のひとりとなり,師の高い評価を受け,守部の編んだ歌集『下蔭集』には詠草35首が収められている。<参考文献>高井浩『天保期,少年少女の教養形成過程の研究

(林玲子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田村梶子」の解説

田村梶子 たむら-かじこ

1785-1862 江戸時代後期の歌人
天明5年生まれ。上野(こうずけ)(群馬県)桐生の人。書をよくし幕府の右筆(ゆうひつ)として江戸城大奥に15年つとめる。帰郷して寺子屋松声堂をひらき,和歌,和文,礼儀作法などをおしえる。のち橘守部(たちばなの-もりべ)の門にまなんだ。晩年出家して恵玄尼と称した。文久2年9月死去。78歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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